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カントが見つけた、哲学の究極の土台。#125

2025/5/17
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ゆる哲学ラジオ

AI Deep Dive AI Chapters Transcript
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平田
Topics
平田トキヒロ:私はカント哲学の核心である「アプリオリな総合判断」について解説します。当時の哲学はヒュームの懐疑論によって危機に瀕していましたが、カントは普遍的で必然的な知識の基盤を確立しようとしました。彼は、経験に先立つアプリオリな知識と、経験に基づくアポステリオリな知識を区別し、さらに分析判断と総合判断という概念を導入しました。ボルフ学派がアプリオリな分析判断に偏っていたのに対し、ヒュームは総合判断をすべてアポステリオリだとしました。しかし、カントは数学のように普遍的で必然的な知識が存在することから、アプリオリな総合判断の可能性を追求しました。このアプリオリな総合判断こそが、哲学、科学、数学の強固な土台となると考えたのです。私は、カントがどのようにしてこの難題を解決しようとしたのか、その過程を明らかにしていきます。 よしのぶ:私は平田さんの説明を聞きながら、ヒュームの懐疑論に陥りそうになりました。経験に基づかない知識など本当に存在するのか、すべては主観的な解釈に過ぎないのではないかという疑念が湧いてきたのです。しかし、数学の例を聞いて、確かに5+7=12という答えは誰にとっても普遍的で必然的だと気づきました。これはアプリオリな総合判断の可能性を示唆しているのかもしれません。ただ、総合判断にアプリオリ性を見出すのは非常に難しく、本当に可能なのかという疑問はまだ残っています。カントがどのようにしてこの難題を解決したのか、次回を楽しみにしています。

Deep Dive

Chapters
カントは、ヒュームの懐疑論をきっかけに、哲学の新たな土台を築こうとしました。その鍵となるのが「アプリオリな総合判断」です。既存の哲学が経験に基づく「ア・ポステリオリ」な判断に頼っていたのに対し、カントは数学や自然科学のような普遍的で必然的な「アプリオリ」な判断を探求しました。
  • カントは哲学の新たな土台構築を目指した
  • ヒュームの懐疑論が哲学の危機をもたらした
  • アプリオリな総合判断がカント哲学の重要な概念

Shownotes Transcript

来自弗罗伊登堡的哲学家康德,正如您所知,他的根源在苏格兰,我们在前几次节目中稍微提到了这一点。当时的哲学这门学科正处于垂死状态。人们认为一切都可以理性地解释,当时有沃尔夫学派,他们在苏格兰,大卫·休谟提出了一些……

一些诸如“这一切都是骗人的吧?”、“这只不过是习以为常罢了?”之类的批判,导致哲学变得毫无意义,沦为边缘学科。康德无法放弃哲学,于是他决定……

着手创建一个全新的、完善的哲学体系,这成为他毕生的宏大项目。其中一个关键术语是“先验综合判断”。这是什么?先验综合判断?听起来像某种甜点呢!像苹果派,也像布丁……总之,这是康德哲学中最重要……

的词语之一,或许可以说是最重要的词语。今天我们就来讲解一下。在这个哲学史项目中,我们选择了柏拉图、康德和尼采这三人,康德处于中间位置。我想把柏拉图的观点也联系起来。柏拉图提出了“理念”的概念,认为我们必须追求理想,存在一个与现实世界不同的世界……

一个与现实不同的、理想的世界,追求这个理想,这个理想的性质是什么呢?这个理想必须是普遍的……

无论何时何地都适用,不能基于个人的经验。理想就是这样,对吧?真正的理想,感觉应该是这样。我不这么认为。不,我认为是这样的。这根本不像理想,是基于经验的。例如,理想的工作方式……

如果基于个人的经验,例如,在居酒屋里,我认为我的方法最正确,因为符合三方皆益的原则,所以你们应该遵循我的方法。这算不上理想的工作方式吧?

最终,感觉不是这样的。书里写着理想的工作方法,一看,A先生的案例,B先生的案例……有500个案例,500个人都有各自的理想。那会让人觉得……这是什么?

这根本不是终极的理想,对吧?感觉不是这样。这只是人们根据自身经验得出的理想。是的。如果我们去研究这些,那这算不算一门学科呢?这只是在收集信息而已,对吧?就像是在讲述人生经验一样。

就是这样。哲学必须探究普遍性的东西,不能基于经验。这是哲学的使命,因为哲学是追求理想的。因此,只有探究普遍性的理想……

哲学才能成为一门学科。而休谟却提出了质疑,普遍性?他从苏格兰发出了质疑。哲学的基础动摇了,人们开始怀疑哲学是否还有意义,于是哲学轰然崩塌。我们追求理想几千年,结果却发现它并非普遍的……

我们做了什么?我们接下来应该做什么?康德认为,既然已经崩塌了,那就必须重建基础。不是站在前人的基础上,而是要自己创造基础。太棒了!先打好地基,再建房子。建房子?行业术语呢!有什么可以借鉴的……

从零开始思考太麻烦了,所以康德想寻找一些普遍的、不依赖经验的东西,看看有没有其他学科可以借鉴。康德注意到数学、逻辑学和自然科学……这些学科是普遍的。也就是说,在古希腊做加法,2+2=4;在现代日本做加法,2+2=4。

是普遍的。而且这并不依赖经验,无论是谁,无论处于什么境遇,结果都是一样的。我不会说因为我用5+3=8的方法算出来的,所以结果就是8。不会吧?加法、几何学……任何时代都一样。是的。

在康德的时代,数学和自然科学非常流行,有很多重大发现。例如,17世纪著名的数学家纳皮尔,以纳皮尔数而闻名,他发明了对数的表示方法,在高中时我们经常用到。据说他也是对数的发现者之一,但……

他没有发表,纳皮尔第一个发表了。我们之前讨论过石碑的故事,对吧?是的,当时有很多这样的事情。那个时代,数学和科学在很多地方同时蓬勃发展。在科学方面,例如波义耳定律的……

波义耳、牛顿、伽利略……这些都是17世纪的人物,黄金时代!黄金时代!全明星阵容!这些人极大地推动了数学和科学的发展。沃尔夫学派的人们以数学和科学为榜样,试图建立基于数学或科学的哲学。

这很好,但这样什么也改变不了。最终,沃尔夫学派所做的事情与休谟所说的……一样。休谟说科学都是习惯,对吧?这只是思维习惯而已。

仅仅沿袭他们的做法是不够的。是的,就像重建倒塌的建筑一样,会再次倒塌。那么该怎么办呢?康德开始思考,人是有局限性的,不是无限的存在。

寿命有限,能做的事情有限。是的,想学习的东西很多,想弹钢琴、小提琴,但人生很短暂。是的。那么,为什么我们能够探究那些看似普遍的数学和科学呢?用我们这小小的脑袋?

他开始思考这个问题。休谟说这是习惯,但为什么会有这种习惯呢?这就是关键所在。沃尔夫学派的人们将数学和科学视为理想,希望哲学也能进行这种普遍性的……

探究,但只是模仿其形式而已。康德认为,他们可能只是在模仿。康德认为应该更深入地思考,为什么数学和科学是普遍的?为什么人类能够做到这一点?如果我们了解科学和数学之所以普遍的原因,那么我们就可以以此为基础建立哲学,这将是普遍的……

将是普遍适用的。以前我们不知道数学和科学的基础是什么,哲学试图建立在它们之上,所以才会轰然倒塌。我们要寻找基础,要建立坚实的基础。是的,不要建立那种会被“这只是思维习惯”这种说法推翻的基础。

我们要建立更坚实的基础。康德作为哲学的医生,要寻找导致这种混乱状态的原因。

首先,要明确问题所在。哲学为什么会如此混乱?康德接受过沃尔夫学派的教育,弗罗伊登堡是沃尔夫学派的大本营,对吧?是的,康德在沃尔夫学派的大本营中长大,所以他理解沃尔夫学派的说法。休谟……

说这些只是习惯,康德也觉得有道理。他理解双方的观点,也觉得双方都有些问题。那么,论证中哪里错了?为什么他们会发生冲突?康德思考着,休谟是怎么说的?……思考之后,他发现……

他们根本没有在交流,说的完全是两码事。康德意识到这一点,并用两种概念来整理这些观点,它们是成对出现的。一个是先验和经验;另一个是分析判断和综合判断。

先跳过吧,这次主要讲解术语。先验的意思是“预先”。例如,“预”这个字,像“预售”、“预告”等等,都是预先的意思。预先开放,是的,是的,是的。这就是先验,“预先”。

经验是指某件事情发生之后。像“后现代”,“后结构主义”等等,都有“后”的意思。是的,是的,是的,好像有这样的词。这就是经验,在某件事情之后。先验和经验,这两种概念……

先验指的是什么之前?经验指的是什么之前?那就是经验。

在个人的经验之前,就已经知道的事情,就是先验;在经验之后做出的判断或了解的事情,

就是经验。这是一个非常重要的区别。康德发现,先验的事物是普遍的、必然的。这很重要!很重要!无论是谁,结果都一样,这就是先验的事物。经验的事物是基于经验的,所以会带有个人色彩,

带有主观性。这完全是偶然的。先验的事物和经验的事物就这样区分开来。接下来是分析判断和综合判断。分析判断,用更难懂的话来说……会怎么样呢?

简单来说,用更难懂的话来说,就会涉及到逻辑学,主语概念和谓语概念等等。简单来说,例如,有一个杯子,一个水杯,这是一个杯子,杯子可以装水,这就是分析判断。这当然没错,分析判断就是只说明显而易见的事情。

杯子本来就是用来装水的,所以能装水,这当然没错。是的。这就是分析判断。分析判断,是的。康德的例子是“所有物体都具有广延性”,这是一个分析判断。嗯……这里深入讨论的话……对不起,我解释不清楚。康德举的例子比较难懂……

康德的文字读起来很容易理解,但例子却很难理解,我是不是理解错了?通常情况是相反的,只理解了例子,没有理解本质。但康德的情况是相反的,本质更容易理解,例子却很难理解。例子是不是不太恰当?康德的例子……

“所有黄瓜都是可以吃的”,这是一个分析判断。几乎没错。黄瓜是一种蔬菜,既然是蔬菜,那就是为了让人吃而培育出来的,这当然没错。黄瓜这个概念本身就是指可以吃的东西,这是理所当然的。这就是分析判断。综合判断则包含一些不包含在概念中的东西。例如,这个杯子是圆柱形的。

但也有方形的杯子。是的,不一定。这取决于经验。只见过圆形杯子的人可能会认为这是必然的,但也有方形的杯子,有些地区只使用方形杯子。

是的,他们会认为是方形的。就是这样。这就是综合判断。综合判断。杯子的概念中并不必然包含形状,但包含形状也不奇怪。是的,如果离得太远,就会变成谎言。

是的,会变成错误的命题。所以,不一定包含在内,但包含在内也不奇怪。包含在内也不奇怪的东西就是综合判断。顺便说一下,康德的例子是“所有物体都具有重量”,这是一个……

综合判断。啊?感觉很奇怪。我不太明白。顺便说一下,这两个都感觉像是综合判断。“具有广延性”,我理解不了。“具有广延性”是指具有大小。啊……

所有物体都有大小。我们把有大小的东西称为物体。所以这是分析判断。你应该这么说。是的。关于广延性……更难懂的说法是“延伸性”。物体具有延伸性……这让人有点困惑。顺便说一下,康德认为“所有物体都具有重量”是一个综合判断,这让我觉得很惊讶。最近,人们开始考虑质量为零的物体,例如光子或胶子……

据说这些粒子的质量为零。所以,“具有重量”只不过是一种经验习惯,就像刚才说的“杯子是圆柱形的”一样。这真是太神奇了!

我们刚才提到了先验、经验、分析判断和综合判断这两种对立的概念。分析判断是不是有点微不足道?“杯子是用来装水的”,这没什么了不起的。是的,如果有人得意洋洋地说这句话,我会觉得很无聊。

“黄瓜是可以吃的”,也是这样。是的,感觉就是这样。为什么分析判断是微不足道的呢?因为对康德来说,这是必然的。

是普遍的、必然的,所以没有什么好惊讶的。是的,如果对这个感到惊讶,那就相当于说“兔子是兔子”一样。康德认为这是先验的,在经验之前就知道的事情。可以进行分析判断的事物是先验的。我们刚才讲了两个概念,现在把它们结合起来。

先验分析判断和经验综合判断,可以分为这两类。跟上来了吗?先验的,所以没有综合判断。没有先验综合判断。

那么,我们应该如何结合它们呢?例如,我们之前提到过,你见过正512边形吗?没有。当然没有。那么,正512边形有多少个角呢?512个角。

对吧?我们没有见过,没有经验过,但我们知道。这是先验分析判断。正512边形有512个角。我们没有经验过,对吧?我们可能认为它几乎是圆形的,但事实就是这样。我们没有经验过,但可以进行分析判断。这当然没错,因为这是普遍的……

必然的。即使在月球上问同样的问题,答案也是512个角。而综合判断则会增加一些东西。例如,“这个杯子是圆柱形的”。

如果说是“印有ゆるがくと咖啡馆标志的杯子”,那可能就是分析判断。但如果是“所有杯子”,那就错了。那是不对的,有很多不同的杯子。杯子有圆柱形的,等等。这就是综合判断。这是基于经验的判断,见过圆形的就说是圆形的,见过方形的就说是方形的。是的。

这就是经验综合判断。我们把它们分成两类,康德的诊断是,沃尔夫学派的人们认为所有问题都可以用先验分析判断来解决。他们就是这样想的,他们一直在谈论建立在先验分析判断之上的东西,对吧?

是的,理性主义认为,所有问题,包括上帝和道德,都可以用先验分析判断来解决。

但这是不可能的。哦,是这样啊。因为上帝是……善是……我们必须再次提问,上帝是什么?善是什么?这根本不是先验的概念,对吧?不会出现。不会出现。不同文化的人对上帝的理解不同,不能说所有的人都认为上帝是长胡子的。不会的。我以为是光滑的呢。

完全にあるじゃないですか、そもそも人じゃないと思ってたとかね。そう違うんですよ。アプリオリな分析判断は適用できる範囲って結構狭くないですか?うん。

なるほど、全部はできないですよね。それをヴォルフ学派の人たちは間違ってたんですよと。全然違うものなんだよね。だからアプリオリな分析判断とアポステリオリな総合判断はまず全然違うものです。全然違います。全然違うものなんだから、一方をいくら積み上げても全然違うものにはなりません。なりませんってことか。

アプリオリな分析判断を積み上げたところで、それは分析判断の積み上げにしかならない。総合判断にはいつまで経ってもなりません。だって違うんだもん。全然違うものだから。そうです。だから数学とかの証明を哲学に適用できるかというと、できませんよね。

じゃあこのヒューム、あなたも間違ってます。総合判断をすべてアポステリオリなものだとして拒絶したことによって、ヒュームは間違いを犯していたと。これどういうことかというと、ヒュームは主に因果関係というものを敵対しというかね。

そんなものはないですよ、というふうに言ったんですけど、そんなものはないということは、分析的に見出せるようなものじゃなくて、総合判断として、風が吹いたという風の概念とろうそくの火というろうそくとかの概念をくっつけて。

総合して、で総合判断として「吹いたから火が消えたんでしょうね」みたいなのが因果関係ですよと。つまり因果関係というのは人間が付け足すものです。しかも総合判断をしているということは、つまりアポステリオリなもの。そうだね。さっきの話で言うとね、組み合わせ逆ないもんね。逆がないんですよ。なので。

ヒュームはアポステリオリだということは、もうそれはあなたの主観だということです。客観ではありません、というふうに批判したわけなんです。どうしようかとここで思うわけです。じゃあ何が欲しいかというと、さっき吉野部が言ったやつが欲しいんですよ。どれ?アプリオリな総合判断が欲しいんです。そういうこと。今ヒュームさんは総合判断しかないって言ったんだから、総合判断しかない。総合判断は全部アポステリオリです。アポステリオリだということは全部主観だと。

あれ、ちょっと待って。アプリオリな総合判断があれば、数学とか科学とか哲学とかのベースも作れるんじゃないかというか。アプリオリな総合判断がないと科学とか数学ってできないよねと、ゴータスさんが。

ているのは、実はこのヒュームもヴォルフ学派の人たちも気づいてなかったアプリオリな総合判断というものがあるからなんじゃないか。みんなそれ見落としてるんじゃないかということで、カントはここで思索を深めていき。

いやいや、思ってたのよ。2個ずつ概念出したじゃん。はい。結局一緒にするんだったらもう1個で語れよって言われちゃった。最初は「はいはいはい、組み合わせる」ってことがあったからか。やっぱ合わせるんです。あーなるほどね。アプリオリな分析判断ばっかりのやつらと、うん、アポステリオリな総合判断ばっかりだって言ったやつ、どっちも違って。

アプリオリな総合判断っていうのがあれば、ヒュームは言ってる「全部総合判断」だって。そうですよ。氷みたいな普遍的なものがある。それもありますよっていう組み合わせができるじゃん。そういうことでございます。そんなものあるんですか?あるんですよ、カントに言わせれば。だってゴータスさんは8だもん、ずっと。

だからこれもあれだよね。ヒュームからするとそうじゃないかもしれないじゃないですか。そういう経験しかみんなしてないから、そういう教育しか受けてないからでしょ。人間だからでしょ。けどアプリオリなんです。そういうことなんです。これちょっとね、本題に行く前にネットで押してたイクラちゃんのミームが、イクラちゃんのミーム?ありまして、ご存知ですか?イクラちゃんが怒った画像があって。

そこにあのカントのですね、セリフが貼ってあって。「いくらちゃん、内容のない思考は空虚であり、概念のない直感は盲目である」っていう。ヤフー知恵袋でなんか先週サザエさんでなんかいくらちゃんがこんなセリフを言ってたんですけど、これ何ですか?みたいな。それが元ネタなんだけど、僕これがあの。

コラなのか本当にあったのかちょっと分かんない。さすがにコラでしょ。ちょっとこれは総合判断になっちゃうんで、アプリオリには分析できないんですけど。俺の経験上いくらちゃんだと言わないはずなんだけど。これね、本当にあったかどうかちょっと分かんないんですが、これ。

カントの著作にある文章で「内容のない思考は空虚である。概念のない直感は盲目である」。ここで言われている「内容のない思考」というのは、合理論のヴォルフ学派の人たちのアプリオリな分析判断ばっかりやってると空虚になる、内容のない思考なんで。「概念のない直感」というのはこれ。

ヒュームの「全部総合判断をアポステリオリなものだと思い込んでいる」ということで盲目であると。確かになんか全部総合的判断じゃんっていうのは直感的な気はする。「盲目」と言い切ったのはすごいねということを批判してるわけです。イクラちゃんミームはこのヴォルフ学派とヒュームを双方批判して、はい。

アプリオリな総合判断というのを見出さなきゃいけないじゃんというのがこのいくらちゃんのセリフなわけですね。そうなんだ。許容が必要ですね。ネットミームもなんかあったんですかね?サザエさんヴォルフ学派に染まるみたいな感じがあったんですかね?それいくらちゃんが批判するの。そうそう、批判する。

じゃあアプリオリな総合判断をできないのかなと。だって5+7とか12だし、5+8は13だし。こういう簡単なものはとりあえずアプリオリな総合判断と言えそう。できてますよね、みんなできる。どこでやっても一緒ですよね。この足し算のさ、結果。

5+7が12は本当にこれ総合判断なんですか?という話もあるかもしれないですけど、いや、5というものの概念に12は入ってないし、「たす」という概念の中にも12は入ってないし、7にも入ってないですよね。だからこれ総合判断なんですよ。うんうんうん。

この足し算の結果が12になるというのは、誰にとっても、吉野部にとっても、僕にとっても同じで、「俺だけ-9です」とかっていうのはないし、いつの時代にやってもどの空間でやっても同じですと。つまりこれは普遍必然的なアプリオリなものなんですけど、総合判断なんです。実は総合判断なんだと。ヒュームはこれを「総合判断ってことはアポステリオリでしょ」とかって言うんだけど。

カントからしたらそれは違うと。これは絶対不変必然なんです。ということは守りたい。だからじゃあアプリオリな総合判断を自分たちが人間ができるということをカントは示さなきゃいけなかったわけです。それをしたのがカントの主張のですね、『純粋理性批判』という本で行われたわけでございます。カントの『純粋理性批判』ですね。また分厚くてすごくあれですね。年季の入ったというか、古本で買いました。

あら安かった。400円ぐらいでしたね。二段組の贅沢に使用した二段組のですね、文字ちっちゃ系すっかすかのね、ページ数だけお安じゃないよと。じゃないです。もうツメツメのやつですね。ツメツメのこれが『純粋理性批判』でございます。川出書房から出ている『世界の大思想』10巻ですね。もうあるかは分かりません。多分古本にしかないと思います。

ちなみにこの時定価630円。俺も今思った。定価630円だったの。今買ったら多分ね、3000円ぐらいするでしょ。全然余裕で安いね。安いね。アプリオリな総合判断、かなり結構難問で、うーん。

だって今までの人たちが見つけてなかったぐらいだから。まあそうだね。今のとこね、足し算の例とか出て、まあまあ確かにと思いつつ、本当かっていう気持ちはまだちょっと拭えてないというか。総合判断にアプリオリ性を見出すというのがかなり難しくて。例えばさ、ご飯。

ちなみに白飯には何を乗っけるのがお好きですか?納豆とかお好きですか?納豆とかお好きですか?僕はちなみに明太子がいいですね。それもいいな。これは総合判断じゃないですか?そうです。完全にアポステリオリな総合判断じゃないですか。

うん、まあそうだね。でもカントからしたら「いや、ご飯にはおかかじゃないとダメなんだ」みたいなのが、あるわけですよ。ああ、まあそうだね。アプリオリなものが、そう、アプリオリな総合判断がないといけない。「ご飯にかけるといえば」って言った時にアプリオリなものがあるはずってことでしょ?何かがあるってことでしょ?何かがある。何?空気とか?何?アプリオリっぽいってなんか空気中に不意。

に流通する埃とかだったら確かに「塩と塩70%と酸素30%が常にアプリオリに乗っている」みたいな。地球だけだなそれ。そうだ、地球だったらそうだね。「ダークマターが」とか言うそうです。よくわかんないけど。ちょっとアプリオリっぽいよね。意味がわかんない。それ「ダークマター乗ってん」の意味わかんないだろ。でもそういう話だよね。そうそう、そういう話。「ご飯に乗るといえば」っていうところにアプリオリ的なものが。そうだから「これ本当に可能なの?」って思うじゃん。でも僕らできてるんですよ。

なぜなら足し算の答えはいつでも確実だと思っているから。それはもうアプリオリな総合判断なんですよ。どうすんのと。

人間がどういう風に思考してるかがわからないんです。ああ、まあでもそうか。そう、思考してるって意味でだとそうだな。そう、確かにそういう風に思考してるんです。すでに我々は小学1年生の段階でももうすでに。そうか。今ごめん、ちょっと勘違いしたわ。ヒュームっぽい考えになっちゃった。ああ、アポステリオリなんじゃないの?とかっていう。そうそうそう、そういうことばっか考えたら違うか。うん。総合判断はそうなんだけど、アポステリオリかっていうとそうじゃなくないということ。うん。

なんでカントがこういう風に言わなきゃいけなかったのかな?なんでヒュームの「アポステリオリじゃん」とかいうのに対して「いや、アプリオリなものもあるんです。7+5はずっと12なんです」っていう風に言わなきゃいけなかったかっていうと、そう言わないと哲学って不可能になっちゃうから。

科学も数学も全部不可能になっちゃう。そうですね。土台を作りに行ってんだからね。その土台が本当に正しいの?みたいなのはある意味ここではその話をしてないというか、この二人の批判をもってして哲学をするにはこう考えましょう。これはありますよねっていう話をしてるってことか。ごめんなさい、もうずっとヒュームっぽくなってきた。それもわかるし、それが当時の17世紀とか18世紀とかカントがいた頃のみんなの考えなんですよ。アポステ。

そう思っちゃった。全部聞いても全部疑いになっちゃった。「本当?」それも全部経験じゃない?みたいな。ヒュームの哲学は経験論とかっていうよりも懐疑論っていう風に言われることが多いんです。

懐疑論。もう懐疑の沼にはまっちゃったら全部懐疑しちゃう。全部疑っちゃう。これヒュームの懐疑論っていう風に言われてるぐらい結構ね、攻撃的というか、何でもかんでも疑えちゃう。そうだね。けどカントからしたら哲学を救い出したいし、新しい哲学を作りたいし、数学とか科学が普遍必然的なものであるということを証明したい。

ヒュームの攻撃から守りたい。だから新しい土台が必要だっていう風に。これが導入のところですね。いろいろ議論していったらあれ、アプリオリな総合判断っていうのが土台としてあるかもという風になどり着いたところまででございます。なるほど。

じゃあ人間たちはどういうふうにこのアプリオリな総合判断をしているのか。そうだね。なんで5+8は13だと思ってるんですかね?しかもそれが必然的だと思っているのか。みんな思ってるもんね。これをですね、次回カントがどういうふうにこれを解決したのかということを。

使いたいと思います。全くわかんない。全くわかんないと思います。カントもこの『純粋理性批判』ね、若い時から書き出すんですけど、友人たちにもね、「いつできるの?いつできるの?」って聞かれて「もうちょっとできると思うよ」とかっていう風に言って、2、30年かかってできるっていう。過去のね、ゆる哲学ラジオで聞いたことある哲学者あるあるかもしれないですね。もう少しで書き終わるようがいつまでも終わらない。いつまでも終わらない。何回か聞いたことあるなと思って。

『純粋理性批判』もその本です。そのタイプの本です。カントも「もうすぐできるな」というふうに思ったんだけども、あれ意外と謎が深いなということで、それぐらい時間がかかってしまったと。めちゃめちゃ難問だね。めちゃめちゃ難問でございます。ということでですね、次回カントが何十年も考えて出た結論を1時間ぐらいで喋ろうかというふうに思っております。はい。

ということで、高評価、チャンネル登録、コメントなどね、お待ちしております。どんなコメントかと言いますとですね、「デュルズ語り」というコーナーを最近やっております。やってるな。今回もやります。やりましょう。今週もデュルズ語りやります。多分途中で切ってしまった人とかもいると思うんです。「終わりなんだ」と思って切った人いると思うんですけど、まだまだ実は、まだまだあったんです。今週のデュルズ語りは、はい、「年度的教育」でございます。「年度的教育」。年度ってあの、コネコネ。

あああ、粘土で作られるやつね。あれ的な教育ですね。おお。どんな教育なのか。なるほど。図工とかでやったりしますけども、そういうことじゃなくて、粘土の性質を使って教育というものをですね、語ろうとしたときに、どんな教育かということを考えていただければと思います。そうだね。はい、思います。ということで、ゆる哲学ラジオ、以上にしたいと思います。ありがとうございました。ありがとうございました。