関東の哲学って哲学史上を見てもね稀に見るぐらいもうトップぐらい難しい思想なんですよそうなんですかなんですけどやっぱり関東も人間なのでうん
カントがどういう家庭で生まれてどういうふうに育ってどういうふうに成長してどんな悲劇があったかどんな人生を歩んだかみたいなことを知ることで実はこの難しい思想を理解するためのヒントにもなるんですよそうなんですかなので今日はねカントの哲学者の中ではあんま浮き沈みのない一見平凡に見える人生というのをちょっと見ていこうかなと思いますわかりました
関東の生涯のポイントは 3 つぐらいありまして 1 個目が出自ですね関東がどういう家庭に生まれたかというところなんですけど関東はね実はスコットランドと割と関わりがある地筋でしたイギリスの上の方ですよね上の方ですそこと実は関わりがあってこれがね彼の哲学にちょっと絡んでくるんですよそして 2 つ目がね関東がどういう教育を受けてきたかということなんですけどめちゃめちゃ優秀で
やっぱ名前を残すぐらいですからそうですよねめっちゃ優秀で幼い頃から割と高等教育を受けてきた詰め込み型教育みたいな
まあでもそんな感じがするね勉強ができすぎてできすぎていろいろ教授からもこの子供すごいなみたいな感じに認められるぐらいめっちゃ天才だったザ振動ザ振動ですそんな方ですでまあ 3 つ目のポイントが彼がどういう生活を送っていたかということなんですけどこれ
カントが大学生とかになった時にお父さんとお母さんが両方ちょっと早くして亡くなってしまうんですねそこで残された兄弟を養うために大学を休学して働きながら論文を書く必要があったとそうなんだ
苦学生苦学生でした振動とはいえやはりお金の力はね必要ですからそうですねこういうですね出自教育まあ彼の生活このね 3 つのポイントを抑えるとカントは後に思考の革命とかうん
哲学の革命みたいなことを起こすに至るんですけどなんでこのカントという一人の男がやらなきゃいけなかったのかというのが必然性を帯びてくるわけなんですなのでじゃあまずカントが生まれたところからね
ちょっと話をしていきたいんですけどカントはですね 1724 年の 4 月 22 日生まれでございますこの動画が公開されるのが多分 5 月の最初の週とかになるのでまあこの前生誕 301 年を迎えた哲学者になりますちょうどカントウィークぐらいですね
カントウィークあそうカントウィークがちょっと終わるぐらいか終わったぐらいかゴールデンウィーク一週前ぐらいだもんね 4 月 22 日でもそのぐらいの時期だったんだそうもう多分ねドイツの春を象徴する向こうの桜みたいなのが咲いてたんでしょうね春の象徴的な何色かの何かが入ってるんでしょうねまあ緑だったんですけど
たんでしょうねという時に生まれた方でございますドイツで生まれたんですかこれがねもうねめんどくさいこと聞いてくるねなんで今スコットランドと関係があるっていう前情報があったのでドイツの花々が咲いてる情景を思い浮かんだんでごめんなさいここねすげー難しいのは難しい出生した場所難しい例えばよ中国のさ元の王朝で
生まれた時のモンゴル元王朝で生まれた人がさ中国の人ですみたいに言うとさ元って征服王朝だしなみたいなのとかさ官民族の王朝ではないからね中国の人と言っていいのかモンゴルの人と言っていいのかみたいな一般的にはね官民族の人が主流だからとかいうそこら辺のねどこが征服してみたいなのがちょっとねややこしいところに生まれているんですよそうなんだ
カントが生まれた時は東プロイセンという国でプロイセンは今のドイツ母体になった国ですよねカント自身もドイツ語で教育を受けて本を書く時もドイツ語で書いていますなんですけど第二次世界大戦が終わって敗戦国ドイツの領土をどうにか分割するみたいになった時にロシアがですね今このケーニヒスベルクというカントが生まれた街を領土として持っておりまして
ああそうなんだ今はカリーニングラードという名前で呼ばれているんですけどもめちゃめちゃロシア風の名前になってますねめっちゃロシアの名前ですってことは今もロシア領ロシア領ですなので関東がどこで生まれましたかっていうとドイツで生まれましたっていうのも若干縦長だし関東は今でいうロシア人ですっていうのもちょっと微妙なところがある
あるねちょっとややこしいところに難しいですね生まれておりますちなみにですけど吉野さんはね世界史が得意でございましてかつてねかつてなのでロシアがなんでこの戦争の後に領土が欲しいとかさ征服するってなった時になぜこのケーニヒスベルクに狙いをつけたのかそして今カリーニングラードとしてロシアが支配しているのかというのがなんとなく理由はわかりますかカリーニングラードって港町ですか聞きました
聞きます?そうなんですよ僕は教科書的な知識しか知らないけどよく言われるロシアの政策は不登校といってね凍らない港ロシアは寒いからね海にめっちゃ面してるんだけどだいたい氷で閉ざされてるわけですよね全方位ほぼ北極海ですからねですからねだから軍艦とかを出せないからできるだけその
年中凍らなくて軍艦とかを出せる港を求めて南へ行ったり西へ行ったりとかそういう不登校を求めてるっていうのでそこは港町で年中凍らない町だったんですかねそういうことでございます
教科書的で素晴らしいそうですこのケイミスベルクは東プロイスの時は首都だったぐらい栄えていたかなり有数の港町そうなんだでイギリスとの交易のラインに入っているのでイギリスから結構文化とかがいろいろ入ってきたりとかしていた港町でロシアは不登校を求めて南下政策とかで行ったりしますけど南の方に行って津賀秀も欲しかったうん
凍らない港をですね現在はカリーニングラード持っているというわけでございます日本側だとウラジオストクとかですかねビューって伸びてますからね長岡区朝鮮半島側というかビューって伸びてるのは意図を感じますよねどうしても南が欲しい分かりますね東側がウラジオストクだとすれば西側はカリーニングラードということでございます
そんな港町のすごい大都市首都に生まれたイマヌエルカント家庭はですね実はバグ職人のバグってのは馬ですねあぶみとかクラとかタズナとかそういうのを多分作っていたらしいですね家庭は職人の家だったんだ職人の家でしたお父さんがバグ職人でお母さんもバグ職人の家出身の方らしいので多分バグ職人同士合コンみたいなのがあった
なんかあったんでしょうねバグ職人しか入れない合コンみたいなそれこそね昔の僕のイメージですけどプロイセンとかいろんなギルドみたいなねギルドあったね昇降ギルドあってさ同じ組合同士でね仲良くしてみたいなイメージあるのでもしかしたらそういう結びつきとかもあったのかもしれないですねバグギルド主催のバグギルド主催の合コンで合コン
であったのかもしれないですね違いねえ有力バグ職人のところからちょっと連れてくることで次の市場で売るときの場所が良くなるとかあったんでしょうねわかんないけどギルド内のねギルド内のなんかあったんでしょうかもしれませんねそういう出身なんだそういう出身でちなみに後に出てくるおじさんもいるんですけどこのおじさんもね靴職人ということなので多分川なめしがね
上手い得意な家庭だったというふうに伝わっております兄弟姉妹合わせて 9 人のうちの第 4 子として生まれたらしいんですけどもこれね僕が今回調べてきたですね岩崎武雄の関東から平家類という本があるんですけどここには兄弟姉妹合わせて 9 人で書いてあったんですが別の本だと 6 人兄弟で 2 番目
とかっていう話もあるのでちょっと兄弟については諸説ありでございますけど 6 人以上いたんだろうと最低 6 人はいた 3 人がちょっと養成されたのかわからないんですけどなるほどそういうことか今に伝わってるのは 6 人伝わっています一応言っておきますとカントがね 2 番目でお姉さんのレギーナさん下にね 3 人妹が続きますマリアさんアンナさんカタリーナさんで
末の弟にヨウハン君がおりますけどもこのカントの下に幼い妹弟が最低でも 4 人いるという事実は重く受け止めてください 4 人いるということ 4 人も幼い弟妹がいるということが重要なんですねそうです一番下の弟ヨウハン君はカントとですね 11 歳差でございます結構離れてますこれがね重要な
事実になってきますので皆さんちょっと覚えておいてくださいもうちょっと血筋の話をしたいんですけど父方の祖父ハンスという方がいるんですけどこの人がどうやらスコットランドから東プロイセンに引っ越してきた人もしくはその上の関東の祖祖父が移ってきたんだろうと移民というわけじゃなさそうなんですけど何らかの理由で移ってきた家庭だったらしいですねスコットランド系の家系なんだお父さんの方が
実際なんかスコットランドにはカントっていう名字があるらしくて C から始まる CANT っていうカントっていう名字がスコットランドにはよくあってそれがドイツのプロイセンに来た時に K の
の方のね関東に改められたんだろうということが言われておりますけどもこれも大事スコットランドとちょっと親近感というかね家族感みたいな俺のおじいちゃんがスコットランド出身だからなみたいなルーツはあそこにあるんだみたいなそこら辺の精神性の近さみたいな親近感みたいなところは実は関東の哲学に深く根差しているところでございますスコットランドへの親近感はい
カントがどう育っていったかという話なんですけど、お母さんが今でいう教育ママみたいな感じで、お父さんお母さんともに熱心なルター派の教徒で。キリスト教のいわゆるプロテスタントの一派ですよね。宗教改革の一翼になったというか、主役といっても過言ではないルターさん。その人についたので勤勉実施。
ルター派の教徒というのはこの時代は特に冗談が通じないみたいなちょっと違いますけどプロテスタントってね例えば聖教徒とかもいますけど冗談が通じない的な意味もありますよね多分ね
めちゃめちゃ真面目な人たちってことですよね真面目な人を見たらあんたルター教徒ですかみたいなルター派ですかみたいなことになるんでしょうねなあなあに適当な人は宗教改革とかについていかないでしょうからねなんでもええやんって思ってそうだねなんでもよくないって思う人がついてくんでしょうから
大多数はカトリックでしたからねそんな中真面目に考えるとこんな方がいいんじゃないかというそういう思いがねお父さんお母さんともにあってですねお母さんも経験なルーターハー教徒なので教会の聖書教室みたいなのがあってそこに幼いカンタを連れてくるんですよ
イマヌエル来なさいとか言ってはいとか言って聖書教室に行くんですけどここで運命の出会いがありますその当時東プロイセンの首都ケーニヒスベルクにありましたケーニヒスベルク大学の神学神の学もね神学の教授がですねその聖書教室やってましてすごいねイマヌエル君いいねとおー君
賢い君はね育てなきゃいけないとか見出してくれたんだ見出してくれた青井の上みたいなそうだねまあまあ見出したってことに感謝したよね若紫みたいな感じで確かに小さい頃にそう小さい頃に見出したってことですね君いいねってなりましてここから自分好みにするんですかね分かんないですけど自分好みからだったかどうか結婚するまで行くんですかね分かんないですけど行かないですけど結局行かないですけど呼ばえとかはしないですかいえしないですそんな源氏じゃないそんな源氏じゃなかったそんな源氏がそんな源氏がよかったよかった
進学の先生ですかねそうですよちゃんと進学をやってる教授がですねどれだけ入れ込んだかというとその当時ね王立フリードリヒ学院っていうねなんかわからんけど強そうだねなんかわからんけど偏差値高そうなめちゃめちゃ高そうですねところに 8 歳で
入学させますすごいねなんかわからんけど 8 歳じゃなさそうだよね 18 歳ぐらいの人たちが集まってそうだよね法律フリードリー学院にはね名前すごいよねすごいねナロウ系とかに出てきそうな名前ですけど強そうですねただご家庭バグ職人ですそうだったそうだった
しかも貧しい側のバグ職員どうしようと学費がそうだね学費手伝いもせくれなくなるしねたぶんねニトリの奨学金とかもないしその当時はそうだねないんでどうしようとその進学教授がね私出しますとへーすごいってカントの学費を全部その教授が負担して王立フリードリヒ学院に入学させるんですよそうって
先生とか教授の目から見て天才だったんでしょうね私の後継 2 ぐらいだったんですかねでしょうねここに入って 8 年間学びますこのフリードリヒ学院で 16 歳までやりますけどもこの学院に入っている間に自分はその進学教授と出会わせてくれた母親うん
が去年 40 歳で亡くなってしまいますここでまあうちひしがれたんでしょうねカントはね年老いた後も母親がやってくれた教育は何一つ間違ってくれなかったみたいな母親は私に何が正しくて何が悪いかをすごく丁寧に教えてくれたみたいなことをね言っていてお母さんとの思い入れが強い自分でも影響が強かったと
そのお母さんが 13 歳の時に亡くなってしまいますまだね恋しい頃だよね亡くなっちゃうんだそしてフリードリフィー学院に卒業しましたその 3 年後ね念願のケーニヒスベルク大学に入学することが決まりますちなみに今ケーニヒスベルク大学閉校しております
だってロシアに少なくともケーニスベルクという名前ではないでしょうねどうやら 1945 年に並行されているらしいですねあらね 1945 年ってね世界大戦でドイツの敗戦に伴ってロシア領になり配合になったと何ですかが
今ロシアのカリーニングラードという場所にはですねバルト連邦大学というバルチック大学がありましてこのバルト連邦大学の正式名称はイマヌエル・カント記念バルト連邦大学となっておりますそうなんだカントが通ったわけでもない大学を出身で有名人がいるからって龍馬空港と同じノリで大学が龍馬空港?高知龍馬空港あるじゃないですか龍馬が別に空港をね
行ってみたいなと思いましたね
大学入った後も関東の運命の出会いは続きます人に恵まれてますねそれがですねくぬっつえんという教師先生でございましてくぬっつえんさん文献によるとくぬーつえんさんと書く人もいますけど読み方はねくぬっつえんの方がなんか喋りやすいんでまあそうねくぬーつえんって声に出して読みたい日本語なんでくぬっつえんの方が僕はそっちにしますけどこの人がね哲学にも詳しかったんですけど自然科学園もね
結構造形が深くてカントはこのクヌッツェンとの出会いから自然科学すげえみたいな風になったりもしたりこのクヌッツェンという人はねイギリスに当時いたロックという哲学者がいるんですけどジョン・ロックさん有名なジョン・ロックさんがいて彼の影響もクヌッツェンが受けてましてロックすげえみたいなロックって中学校とかで勉強したかな統治二論っていうね
著作がある有名な方ですよねこのロックについても今後哲学史の流れの中で解説する回はねもう一回言おうと思いますけど今はとりあえずロックってすげえ学者がいたんだけどイギリスにいたんやなという流れだけ覚えてもらえればいいんですけどこのグヌッツェンという人の影響でカントも自然科学すげえイギリスの思想すげえみんなどこにもはまっていくわけです
これがねカントン人生を決める影響になったわけなんですけどこのクヌッツェの話をちょっと
脱線気味にしますとこの人ね自然科学ただただ詳しかっただけじゃなくて 1744 年だったかな彗星来ますみたいなことを予言して実際それ当たったらしいんですよ彗星の軌道みたいなことを計算もして天文学ですかね実際予言してそれが当たったらしいんですけどその当時別の数学者からですね批判を受けましてお前が計算して当てたんだそういうたまたまで計算の元になった彗星はまた別の彗星だからみたいな
ことをですね批判されたらしいんですけどちなみにその数学者はレオハルト・オイラーというオイラーはい方でございますはいこのオイラーがお前はあのラッキーボーイだみたいなオイラーさんが何したかは知らないけどオイラーという数学者は知ってます
すごいんだっていうすごいらしい数学者天文学者なんかわかんないけど定数とかに名前を残してそうですよね多分ね多分残してるオイラーなんちゃらとかありそうですよね定理とかであると思うあるんでしょうねなんでこれオイラーの話をしたかっていうとちょっとねクヌッテンとオイラーってこういうちょっとライバル関係があるんですよ
水星の予言をめぐって批判したからねカントはクヌッツェは尊敬してるけどクヌッツェンさんは俺のことあんま認めてくれないなみたいな時期もあってクヌッツェはねクヌッツェンのお気に入りの他の弟子たちがいっぱいいたんですよあんま俺イマヌエル愛されてないなハマってないなハマってないってなってオイラーに自分が書いた論文の感想を求めたりとかしてるんですよ
くぬっつえに出さないでライバル関係にあるなオイラーさんにねオイラーなんか無視したらしいんですけどそうなのえー悲しいオイラー全然カントに返事書かなかったらしいんですけどえーそうなんだちょっとカントの人間味を感じるね面白いね偉大な人たちのそういう無視されたみたいなエピソード初めて聞きましたね
大体これをね温かい交流をとかさそうだねなんかこう書簡集みたいな実はこの時に言ったふとした書簡の一節が多大な影響じゃなくて無視された無視されました珍しいまあ多分オイラーその時からも有名だったんでいろいろ書簡がねできたんでしょうねでしょうねうん
そんな学生生活を謳歌する中で 22 歳の時にお父さんが亡くなってしまいます兄弟ね 9 人なのか 6 人なのか幼い子もいながらですね 11 歳離れてたっけ一番下の子も 11 歳とかかまだ全然ちっちゃいねお姉ちゃんがいますけど 27 歳のお姉ちゃん
妹が 19 歳 16 歳 15 歳と言いまして弟が 11 歳とこれどうですこの状況でお父さんお母さんもいないと自分は大黒柱として変わらなきゃいけなくてそうだね今日大学には行きたい大学生だからねという中でカントはここで努力をして火災を売り払い一家を離散させないように努力をしながらどうしようってなった時におじのリヒターさん靴職人のリヒターさんが
お金援助するよと靴職人うまくいってたんだ一応卒業年度までは見てやるしかも一番小さかった弟も引き取ってくれましたありがたいありがたいリヒターさんが育ててくれたというところでですねカントはその後 2 年間大学を通ってここで休学をしますちょっともうリヒターさんに迷惑がかけられないということでちょっと働かなきゃとそうなんだということで住み込みの家庭教師としてですね
各地プロイセンなりその周辺を行きますいいですね家庭教師確かにあってそうカントがケーニヒスベルクという街を出たのはこの 1 回きりというかこの家庭教師の時以外はカントは人生でケーニヒスベルクという街を出ませんでしたへーそうなんだ大都市引きこもり
人が勝手に集まっちゃいますからね東京とかもね東京で生まれ育っちゃうとねよそ行く理由はあんまないっす住み慣れちゃうとねむしろ来てくださいって言っちゃいますよねまあしょうがない関東もねちょっとねそういう派だったんですようん
家庭教師ねカントは晩年自分のことを笑いながら俺多分一番最悪な家庭教師だったと思うみたいなことを自虐してるんですけどけどそこで働いた先の高級な家庭ですよね上流階級当時なんて多分ね金持ちしか家庭教師なんて雇えないでしょうからねその人たちからは割と評判だったらしいですカントさんすごいみたいな感じになってたらしいので親からは評判いいかもしれない
逆ももちろんありますよね子供と遊びまくってね子供から評判いい親から評判良くない家庭教師の大学生バイトとかいっぱい知ってますけどまあまあまあそういうもんですよねそんな風に働いてお金を稼いで妹たちの援助とかもしつつ自分も暮らすためにねお金を稼ぎつつというのをね働いてたんですけど大学を辞めたとか退学したとか卒業したとかじゃなくて休学というのがポイントでカントはね大学に戻りたかったんですよ
そういうことだよね辞めればいいもん退学すればいいもんねもし本当に働くって決めたんだと保留したかったねそうということなので働きながらカントは論文を書きますおー偉いですねただこの時じゃあ何について論文を書くのっていうのがさ自由だとさまとまらないというかさ自分何書けばいいんだろうっていう指針とかがちょっとあんま定まらないからだって今んとこね進学からスタートしたけど自然科学とかに興味持ってる人に影響を受けたりしてる
っていう状況で結構割と何でも何でも何でもいいというか何にもないというか逆に言うとね何を論じればいいのかわからない状態夜ご飯何でもいいよみたいな感じになるとさ一番最悪な回答ですねじゃないですかカントはこの時なんかテーマが欲しかったんですよ自分が描くテーマがくれました
くれた何がくれたかというとですね王立のですねベルリンアカデミーという学術機関ですよね全部賢そうここが検証論文のテーマみたいな感じに上げていて年間 1 個毎年 1 テーマでなるらしいんですけどこれについて論じてくださいともう優勝したら出版できますみたいないいですね
それをねカントは書いてたらしいんですよ検証論文にどのテーマが来てもそれを書いて応募したりしなかったりはあったらしいんですけど検証論文があったら試してみてたそうそうそう検証生活をカントの検証生活をしていたわけですカントの検証生活をしてたんだ面白いねそこでいろいろ論文を書いて論文が認められたりとかしてカントはやっと大学に戻ってきますそれが 31 歳になる手前ぐらいじゃあ結構
結構働いたね結構働きましたね家庭教師としてそうね 6,7 年 6,7 年か働きましたカントはこの時大学に戻って私の講師と変わって私講師という職業に就くんですけどこれ大学で授業していいですよただし大学から給料は出ませんというそうなのがあったんだ
大学は講義室は貸しますそこでお話しして学生からお金を取ってくださいそういうのあるんだ面白いねなんか今もポスドクの人とかにやらせればいいのにね今の現代の学生がお金を払ってでも
でも講義を受けたいという優秀な生徒どれだけいますかねどうですかねなんか面白い講義だったらねいいんじゃないかなと俗な講義ばっかりありそうですよねパチンコの勝ち方経済学的に言うとパチンコの勝ち方そういうのがね流行りそうですけど当時はすごいですねそれでお金を払う学生たちがいたんだねすごいなこの生活なんとかんと 15 年続きます逆に言うと 15 年間ポストもらえなかった
もらえませんでした関東ね知ってる身っていうかあと偉大なるっていうのを知ってる身からするとだいぶ長いですねだいぶ長いです 31 から 31 からですねはい
46 まで 46 歳で大学教授になるんですけど今から見ると若いかなっていう感じですけど今の僕たち記者でね 50 歳になってやっと準教授みたいな学問状況の中で 46 歳教授はなかなか早いなという感じはしますが当時としては割と寝かせてたし関東ねちょっとね都会っこの気質が出てんのかな地方の大学からね結構来てくださいみたいなのあったんですよ
全部断ってましたカントンソロ理由はやっぱこだわってたんすかねケイニヒスベルクに痛い日本で言うと東大のポストじゃないと俺は得たくないっていうようなことですよねで行って断ったりとかしててやっと 15 年後にケイニヒスベルクの哲学教授のポストがへー
飽きますみたいなよく 15 年もプライドだとしたらよく持ちましたねカンタねちょっと病弱なところもあったんであんまりこうなんか引っ越しとかして環境変わるとっていうのを嫌ったという説もあるんですけどやっぱその故郷が良かったというのもありますしケイニヒスベルク大学の先生に見染められて自分は学問の道に来たからそもそもね多分そこの思い入れも十分あったんじゃないかと思いますただ 15 年間志向子給料なくてやって
てけたんですよよそう逆にとそうだね カントの講義は大盛況です学生がもう講義室に溢れるぐらい集まってごみんな カントにお金払って聞きたい
じゃあ 15 年も泣く泣くなのか うはうはだったのかちょっとそうだからもしかしたら大学教授になったらちょっと給料下がるかもみたいなみたいなあったかもしれないこれさ関東のこの志向氏の生き方 YouTuber みたいじゃないですか YouTube から給料はもらえないけど視聴者からもらえるみたいな大学がプラットフォームを出してねスパチャもらって
てるみたいなものですよねそれですへーでも確かに確かにカントは YouTuber の元祖みたいなことで 15 年生計を立てています立てれたってことだもんねうんそうなんですよすごいなそんな中ですねこれねカントがね 46 歳でね哲学の教授になって
ブックス
ブックさんを数学の教授にして私イマヌエルを哲学の教授にしてください手紙を出しましたブックさんには何の断りも入れてません大学はよしって言ってカントを 46 歳で哲学の教授につけるというブックさんを移動させてということをやったらしいですでも大学側もそれオッケーって言うぐらい当時カントのその人気ぶりとかあと言ってることの妥当さというかはもう十分だったというか
大学としても欲しかったんだと思うブックさんと比べてもブックさんを移動させてでももしかしたら生まれるかもしれない圧力を超えてでも欲しかったんだねということがありましたよっぽど盛況だったんだろううちの大学の講義室借りてめっちゃ儲けてるやつがいるぞとこいつとしては大学出たらな入学者も増えるかなみたいなあったのかもねもしかしたらカントね意外とねおしゃべり上手だったらしくて
電気に伝わってるのは家にねお客さんを招いて毎食一人で取ることは一度もなかったと誰か一人はお客さんを呼んで最大で 5 人までお客さんを呼んで毎食それで食べていたと
お話好きだったんだ。人と一緒に何かするのが好きだった人なんだ。関東ね、著作だけ読むと「なんやこいつ」って思ったりとか「頭おかしいんかな」とかって思ったり。僕も読んだことないけど、勝手に部屋の椅子で引きこもってる陰キャみたいな人をぶっきらぼうな頭の硬いクマがすごいみたいなやつを思い浮かべてましたけどそんなことないんですね。そんなことないです。兄弟が多かったとかも影響してるのかなぁ。
かもしれないねもしかしたらねなんか言うじゃんなんか末っ子っぽいねみたいなのとかさうんあーよく言われるねだからやっぱ兄弟が多いとそれだけこうなんか喋ったりとかねしてたのかも一番最小の社会ですからね家族はねそう兄弟はね兄弟はありますからねいろいろねってねこの
これもねまた雑談とかでしますけどさっきそのカントは 5 人まで招いてましたこの 5 人までっていうのはカントの机が 6 人掛けの机だったからっていうのがあるんですけど家をね建てたというか自宅を構えたのが 60 歳の時でほう遅いしかもこの時この家にキッチンなかったらしくてですねうん
この後 3 年間は常に外食だったらしいです 63 歳でやっとキッチンを作ってコックさんを雇って毎食お客さんはねトーク生活をしていたらしいです外食もトークしてたのかなもしかしたら誰かと一緒にね行ってたのかもねということで関東はですね実は結構面白おじさんだったそうだったんだねはいらしいです常に周りに人がいるうんそうですそうです
そして 79 歳の時にですねカントはその生涯を閉じますなんか長生きな印象ですね長いねだいぶ長そうだよね当時だと最後の言葉はですねもう気になるもうこれで十分という言葉を残したらしいですすごいね十分と言える人生を送れたんだねもうひっそりと
亡くなったという風に伝わっております僕なんか最後まであがきそうですもんねやだやだやだ諦めろってやだー諦めろよ死に際しての八段階とか結構言われたりします最初はなんか受け入れられなくて
そこから鬱状態になって怒りっぽくなった後に最後諦めるみたいなそういう段階があるみたいなね諦めるしかないですもんねというのは聞いたことがありますけどもカントは最後どういう段階だったか分からないけど怒りの段階があったかもしれないけど最後は落ち着いてというかこのエスイストグッドは割と諸説あってもうこれで十分だ
って訳すのかこの時ねカンタもあんまり喉も通らなくなってきていて栄養補給はねワインを水で薄めてそこに砂糖をいっぱい入れたものを飲んだらしくて美味しいって言ったのかもしれないっていうそういう説もあります This is good っていうあーそういうことあー
確かに何とでも取れる This is good は何とでも取れる確かに何が This って何ってことね難しいね大変ですね It is good もっと難しいねそれそれってなんだよね It is good の it とは何なのかというこれがカントのこの 80 年の人生がどんどん最後に飲んだ飲んだ
砂糖薄めワインなのかがちょっと分からないんですけどカントはこうして亡くなったらしいんです偉人の最後の言葉が何だったかってやっぱみんな注目しがちなんで僕生き物好きなんでねダーウィンとかもさ死に際して何を言ったかみたいなのが
僕何を言ったかまでは知らないんですけど多分ね最後はね家族に見取られてとかみんなに囲まれてって言うよりはひっそりと亡くなったはずなんですけどうん一個だけ知ってるのがダーウィンって本人がどう言ったか別として唱えた進化論がさキリスト教とかに対する冒涜というかさうんうんうん朝鮮のように捉えられたそうだねこともあったんですけどダーウィンが亡くなった時にやっぱ噂でダーウィンは最後にキリスト教に消えするみたいなことを言ってうん
死んだんだみたいなやっぱり戻ってきたみたいな一時期血迷ってたけどあいつは最後は信仰のものに戻ってきたんだみたいなやっぱ神が良かったわみたいなみたいなことを言って死んだという噂が流れたらしくてダービンの娘だったヘンリエッタさんっていうねすっぽんだけを潰そうとしていたっていう余計な情報はちょっとやめますから娘のヘンリエッタっていうすごい信仰心の厚い娘がいたんですよお父さんと違って
お父さんは新カノンとかばっか唱えてるけど私は信仰に生きるみたいな人がいたんですけどその娘が私の父はそんなこと言ってないっていう否決をして回ったって言われてたりいい娘いい娘だよね信仰心からするとさお父さんも言ってましたって言いたいんだろうけどそこは言ってませんって父はそんなこと言ってませんっていう信仰心の厚い娘が言ってたみたいなこれも
一途が何なのかっていうのは多分いろんな人が異様に解釈してるんでしょうねということでカントは生涯独身で結婚せなかったんですね経営にひすべるくも出ることなく生涯を終えましたがこのカントの人生で 57 歳の時に純粋理性批判というごついタイトルの本を出版するんですけどこれが思考界の大革命と呼ばれる書物が
どんな人によって生み出されたかみたいなことを今回言ってきたわけでざっと人生はねどんな追い立ちだったか分かりましたねこの純粋理性批判で語られてる思想がまあ難しいとけどタイトルが難しいもんね純粋理性批判ってね
漢字しかないタイトルですけどこの純粋理性批判の哲学どんな内容なのかというのはカントがスコットランドとちょっと親近感があったことと幼い頃から英才教育みたいなのを受けていてあとはクヌッツェンという人から自然科学とあとイギリスの思想すごいよみたいなことを教わったこととか
あとはベルリンアカデミーが出す検証論文のテーマを結構いっぱい書かざるを得ない状況になっていましたというのがですね分かっていれば純粋理性批判めちゃくちゃ分かりやすくなりますということでじゃあ何が書いてあったんだみたいなことを次回扱いたいと思いますということでコメント高評価チャンネル登録サポーターコミュニティとかねグッズとかもやってますので
よろしくお願いしますということで今回は以上にしたいと思いますありがとうございましたありがとうございました今週もやってまいりましたドゥルーズ語りのコーナーでございますやったぜ今週のドゥルーズ語りワードはメガソーラー的民族でございますジャイアンこの民族の族は人弁に谷の方の民族でございます家族の族ではございませんメガソーラー的民族とは何なのかメガソーラーもねいろんな
そんな解釈の仕方できますよねなんか相反する印象あるけどねそうだね認めた最新というかね科学的なものと土地を大事にしようと土地を有効活用しようみたいなちょっとそういう印象が僕最初浮かんじゃいましたねメガソーラー的民族どんな概念なのかどこで使うのかコメント欄で教えてくださいベストアンサーは雑談会で取り上げたいと思いますということでよろしくお願いします以上ゆる哲学ラジオでしたありがとうございましたありがとうございました
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