日本でもよく知られている哲学者フリードリヒ・ニーチェという人がいます。ニーチェ、僕でも聞いたことあります。彼の哲学って結構難しいんですよ。難しそう。ただね、これなんと、3つの病の観点から整理するだけでかなり分かりやすくなります。病気?はい、病気です。一つに感染症。感染症?なんかもっと心の病とか言われるのかと思った。感染症。感染症。二つ目が恋の病。はい。
三つ目が中二病です。中二病、病ですか?まずは彼の基本情報から触れていきたいと思うんですけど、彼の公的な書類、今で言う運転免許証みたいな、そういうのに身長とか体重とか残されてて今もわかるんですよ。ニーチェって尖らないイメージ、若干ないですか?俺?
俺、細長いイメージはある。身長どれくらい?体重どれくらい?当時のヨーロッパ人でしょう。まあ175くらい、いい線で55キロくらい。細い、細い。ガリガリなイメージがあるんですよね。実は結構大柄で、吉野部がさっき言ったみたいに身長174センチの体重75キロだった。へー。
75?結構重いね。がっしりしてます。重いわ。全く同じだよという方はコメントいただければと思うんですけど。はいはいはいはい。彼ね、1844年に生まれてます。19世紀の人です。はい。当時はプロイセンとか、現在で言うとドイツみたいなところに生まれたんですけど、当時のね、周りの平均身長、これだいたい160センチぐらいだった。
いう風に言われてます。欧米も昔はね、今と栄養状態とかも違うからね、小さかったとは聞きますよね。はい。その中で言うとかなり大柄。確かにでかいね。でした。ちょっとイメージ皆さんにしてもらいたいので、有名人でこの身長体重の人いないかなと思っていろいろ探してみました。4人ほどちょっと見つかったんですよ。例えばね、落合博満。落合博満。まあ
皆さんよくご存知だと思うんですけど、暮らせないおじいちゃんのね、引退した後のおじいちゃん。名監督みたいなイメージですけど、彼178cmの82kgなんですね。小柄なイメージあるけど、あくまで野球選手としてか。あと高木守道が174cmの72kg。谷繁元信になると176cmの81kg。今のところ野球選手ですかね。
173センチを70キロなので、高木守道が一番近いかなと思うんですけど、みんなね、往年の野球選手。中日ドラゴンズの監督。中日ドラゴンズか。だからニーチェが中日ドラゴンズ、落合って言った時点でもうこの後4人ボケ続けるなと思いましたね。「落合出さねえだろ、一人でじゃん」と思って。
落合が一番弱いから弱いのか?皆さんご存知だよね。ということで、ニーチェは中日ドラゴンズの監督をやっててもおかしくないサイズ。そんなぐらいのサイズ感だね。往年の名選手。体系結構飛ばせちゃう。飛ばせちゃう超タイプ。そうだね。だと思います。
彼の出自の話をね、ちょっとしておくと、今のところ形の話しかしない。フロイセンで生まれた中日ドラゴンズの監督になりそうな人という情報しかないですからね。それだけだとちょっとね、歪んじゃうのでニーチェ像が。ちゃんとした情報を入れておきますと、1844年に牧師の家にね、
生まれました。キリスト教の教会の牧師さんですね。この1844年という年は、日本だと幕末動乱に差し掛かる直前かなというところです。ちなみにニーチェの同い年の日本の有名人といえば、新選組にいた斎藤一。
後の外務大臣、陸奥宗光なんかがこの年に産声を上げております。彼らが大人になる頃に幕末へ入り、それぐらいの幕末ちょっと前ぐらいの時代です。ニーチェさんが生まれたんだ。プロイセン。はい。このニーチェが生まれた牧師っていう職業、当時の社会の中では割と上流階級とか、あと知識階級っていう風に言われてた
時です。さっき言った大柄、これもね、この当時は上流階級の証拠だったらしいですね。いいもん食えてるってことか。そうそうそう。いいもん食えてるし、多分ずっと働き詰めじゃなくて寝れてるみたいな。腰も曲がったりもあんません。そうそうそう。確かにっていうのがあったらしいです。に
ニーチェの友達にワーグナーっていう音楽家がいたんですけど、ワーグナーといえば『ワルキューレの騎行』みたいなね。あー、なんだそれ?テッテレテッテーンみたいな。
なんだっけ?『プラトーン』かなんかのベトナム戦争の映画でヘリコプターがなんか飛んでくる時に確か使われてた。「始まるぜ!」みたいな。「始まるぜ!」みたいな曲を作っております。この人はニーチェと一時期友達だったんですけど、いろいろあって絶交しちゃうんですけど、あんまり裕福じゃなかったんですよ。身長もなんか150センチ台とか。
あー、低い。小さかったから。そうだから結構それがコンプレックスで、奥さんのね、小島さんっていう人がいるんですけど、この人は身長高かったんで、家族写真を撮るときに必ずそのワーグナーの方が階段の一段上にいたっていう。あー。
のがあったりしたらしいです。コンプレックスだったらしいですね。確かにさっき言ったように長身が上流階級の証みたいな印象ある中だとどうしてもそういうコンプレックスはつきまとうでしょうね。そうなんですよ。結構さ、世界史とかでさ、王室
病弱だったとか、あんまり身長が高くなかったとかって言って優遇されなかったみたいなのも、19世紀でこの認識なので。確かにね、19世紀割と最近ですからね。もうちょっと昔だと本当に身長低いとダメって
っていうのがもしかしたらあったかもしれないですね。ただ裕福な家庭だったんですけど、5歳の時に父親が亡くなってしまいます。しかも信じられない理由で亡くなっちゃってですね。お父さん近眼だったらしいんですけど、近眼すぎて階段降りようとした時に足元に寝てた犬に気づかなくて、犬につまずいてしまって階段を落ちてしまったんです。
その時の傷がきっかけで亡くなってしまうと。そう、あんなという話らしくて。ニーチェもね、ギャグ漫画みたいなね。「ギャグ漫画って言うなよ!」ごめんなさい。確かにごめんなさいね。人の死をね。そうですよ。ニーチェもお父さんが亡くなったのはすごく痛いって。
お父さんが。それはそうだよね。一家の大黒柱が一本が折れたわけだ。そういうことですよ。ニーチェはその後、事前にお父さんのいた5歳までの頃がすごく良かったなという風に言っているぐらいでございます。人生のピーク5歳。これからひねくれていく一方気がしますね。そうそうそう。
ニーチェはね、お母さんともう一人妹がいるんですけど、妹の話はゆる哲学ラジオで初めの方に結構したので、ちょっとそれをご覧いただければなと思うんですけど、ざっくり言うとろくでもない妹ですよね。そうです。ろくでもない妹がいたんですよ。ニーチェはお母さんと妹のことがとにかくあんま好きじゃなかったんだ。そうなんだ。お母さんとも会わなかったんだ。妹はね、見たら分かると思うんですけど、会わないと思うんですけど。お母さんもか。お母さんも関東を結構連れて行って、そこで古典学の教授とかに見染められてみたいな。あったね。先生と知り合って。そうそうそう。あったね。ニーチェはなんかお母さんいろいろやれみたいなのがすごい嫌だったらしくて。うん。
この辺記述してるのは「私の深淵な思想を理解できない愚かな人として、私はまず母と妹を思い浮かべる」みたいな。すごいバカにしてるね。そういうことを言ってるんですよ。へー、そうなんだ。よっぽど嫌な思い出。よっぽどね、なんか嫌だったんでしょうね。
浅はかである、愚昧であるみたいなことを言ったりとかしてるんですよ。父親がいないながらも親戚からある程度の援助とかをもらったりとかして、ニーチェと妹のエリーザベトという人のね、2人揃ってスクスクと
育っていくことができます。ちょっと補足情報を付け加えますと、彼の名前フリードリヒ・ニーチェというんですけども、時の君主、王様ですね。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世という人がいて、その人と同じ誕生日だったらしいんですよ。10月15日。お父さんはフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェっていう名前を付けたらしいんですね。
ニーチェはその後自分で「ヴィルヘルムいらんなー」つってフリードリヒ・ニーチェになんか改名したらしいんですけど、これね、ニーチェの面白いのは10月15日に生まれてよかったなーっていう風に思ってるらしいんですよ。そのね、理由がすごい共感できるというか。
我々と同じだなと思って。「何が嬉しいんだい?」王様と同じ誕生日だったので祝日だったっていう。あら可愛い。可愛いですね。みんなにお祝いしてもらうみたいな。祝日だとしやすかった。パーティーとかしやすかったんじゃないですか?どこかもあるかもしれないね。みんな集まって来やすいみたいなね。だから良かったってニーチェは言ってる。ちょっと人間味があるというか。そうだね。お母さんと妹は最悪だけど。
誕生日、祝日なのはよかった。嬉しいみたいな。可愛いね。もう一つ足すと、カントが通っていた王立フリードリヒ学院というのがあるんですが、これは初代プロイセン皇帝のフリードリヒ1世にちなんでいるので、ニーチェの名前になったこの王様とは5世代ぐらい遠い関係なんですけど、一応親族
ではあります。こんなニーチェが人生を過ごしていきましてですね、1900年、20世紀に入る直前の年に55歳でその生涯に幕を閉じます。彼のですね、決して長生きとは言えない生涯というのは、常に様々な種類の病気に悩まされていました。次にですね、その病気について喋っていきます。
先ほどニーチェのお父さんが近眼だったよっていう話をしたんですけど、ニーチェ自身もだいぶ目が悪かったらしくて、絵を描くとか嫌いだし、運動とか苦手だしみたいな、割と学生の頃から眼鏡をかけていました。若い頃のニーチェの写真とか見ると、メンデルってわかります?遺伝の実験をやったメンデル。彼にそっくりです。ついでに言うとニーチェってかなり写真撮られ好き。
何かにつけて写真撮ってみたいな。ちょっと陽気なとこもあったね。いろんなとこでいろんなポーズして写真撮られたかったらしい。あらら可愛いじゃないですか。祝日大好きだし。そうね。可愛いですよね。子供っぽいよね。ニーチェの顔。
で、割と女性的な顔立ちみたいな感じに評価されることが多くて、結構周りの女性とかから「ニーチェさんはあんなに繊細な顔つきなのになんであんな不恰好な髭を生やしてるんだろう」みたいな感じに言われてたらしい。今で言う中性的な。そうそう。ベビーフェイスみたいな
感じだったんだけど、髭をもじゃっと生やして。それももしかしたらコンプレックスとかあったのかな。あったのかもね。ブタゴリラみたいなのがあったかもしれない。「ブタゴリラ?」あ、知らないですか?ブタゴリラ。『キテレツ大百科』のジャイアンポジションみたいな。ジャイアンポジションだろうなって思われる人。知ってますよ。そうそうそう。「ブタゴリラ」って友達から呼ばれてるんですけど。『キテレツ』とかから?友達から呼ばれてるんだ。「ブタゴリラー」っていう風に呼ばれてるんですよ。あれ、自分からブタゴリラって言ってって言う
言ったんですよ。あれは本名は熊田香織っていうんですね。その香織っていうのが女性のような名前で嫌だから自分からブタゴリラという風な。「俺、ブタゴリラみたいだからさ」。ちょっと見たくなりましたね。ぜひぜひ見てみてください。ニーチェのこの髭もブタゴリラ的な髭だったらしい。そう。見られたい。写真の話をしたのは、ニーチェは晩年に精神錯乱状態になって
喋れない状態になったりとかもするんですけど、写真好きだったから、まともになった時に写真撮っていっていたのか、みんなが好んで撮ったのか分かんないんですけど、うつろな顔をしたニーチェも写真撮られてるんですよ。グッタリしてソファーにもたれかかってて、どこに焦点があっているのか分かんないみたいな、放心状態の
ニーチェの写真も撮られてるんで、結構これは研究者にとってはありがたい。まあそうだね。先ほどちょっと近眼の話をしまして、運動にも自信がないと。
学校の体育の成績もあんまり良くない。学生時代にですね、兵役の訓練に一回参加したんですね。その当時、いい学校に行ってるといい将校になれるよりも、なんか訓練とかするらしいんですけど、半年もしないで、5ヶ月だったかなとかで、落馬事故で怪我しちゃいました。除隊を余儀なくされました。馬にもまともに乗れない。乗れなかったんだね。うわうわとかってなっちゃうぐらい振り回されたんだろ。運動神経悪かった
だったらしいですね。そんなニーチェに反抗心とかやり残した悔しさ「俺はもっとできるのに」みたいなのがあったのか分かんないんですけど、彼が26歳の時に、プロイセン、ニーチェが生まれた国と隣国のフランス
の間で普仏戦争というのが勃発します。これにね、わざわざ志願して従軍しに行きます。「俺だって一般の兵士としてやってけるんだ」みたいな思いがあったのかもね。あったのかもしれないですよね。これ結構奇妙な選択で、ニーチェは割とインドア系なんですよ。やっぱり今までの聞いた印象だとね。インドアにならざるを得ないよね。友達とかからも「なんで?」みたいな。「国のために」みたいなさ、そういうのをニーチェは
軽蔑していたので。ああ、そうなんだ。「なんでそんな戦争にわざわざ?」みたいな。「国のために体を張って」肉体バリバリな感じもね、逆ですよ。ちょっと不思議なんですよ。なんかまあそういう後悔みたいのがあったのかわかんないんですけど、ちょっとあったかもね。反応が。さらに言うと、この時プロイセンの国民だったらまだ徴兵とかさ、従軍の義務があった
んだけど、この時ニーチェは仕事の都合でスイス国籍を取ろうと思ってプロイセン国籍を捨ててるので、そもそもなんで行くの?みたいな。わざわざ行かなくてもいいよね。祖国がどうとかいうのに興味ないだろう。なんだかマジで分かんないんですよ。ちょっとあったね。そういう時期が。そういう時期があったんですよ。ただこの思いつきが良くなかった。良くなかった。
よくなかった。よくなかったんです。いい経験とはならんかった。はい。24歳の人生に大きな影響を与えることになります。入隊検査と簡単な訓練をされた後に前線に派遣されました。彼は早速最初任務は小病兵を鉄道で後方に輸送すること。
前線から後方の病院みたいな拠点に移すこと。この任務が良くなくてですね、この時ニーチェが担当することになったのは、チフスとジフテリアに感染した6名の兵士。
を鉄道で輸送する。そういうことか。時の看護兵として彼はやったんですけど、武器で負傷したとかじゃないんだ。病気になってる。ただこの看護をするうちにニーチェもチフスとジフテリアに同時感染。同時感染してしまいまして、7人目の症病兵として
同時に入院することに。一人増えた?一人増えた。「6人送ります」って言ったら「あれ、7人になってるけど」っていうことをしたんだことがあったらしいです。体が弱いのとかもちょっとたたったのかな。はい。これで彼の普仏戦争は終わります。ははは。
良くないね。モチベがね。「俺だって」っていうモチベだとしたら、もうこれは心に深い傷を負いそうですよね。これなんと、入隊するために行くぞって言って家を出てから13日後です。早い。まだ何もしてない。戦友も何もできてない。できてないですね。これで終わってしまいます。この病気の罹患によってニーチェはその後10年ほどにわたって常に体調不良に悩まされます。しずくねー。
チフス、ジフテリアの後遺症だったのか、何か併発したのかは詳しくは分かっていませんが。
しまいには仕事も継続できなくなるぐらい体調が悪くなってですね、34歳から年金暮らしを始めます。ああ、そうなんだ。早いね。この年金、年間200万円ぐらいです。まあ暮らせるかな。まあそうだね。暮らせます。贅沢はできないね。最低限のって感じだね。そうです。この36歳という年が一番病状が悪化した年で。うーん。
一時は友人たちの間で「ニーチェは死んだらしい」っていう噂が流れる。たまにいますけどね。同級生でも「あいつ何やってんだろう?死んだのかな?」みたいな冗談で言うことありますけど、そういうやつだった。そういうやつでした。見なさすぎて。見なさすぎるし、ガチで病気になったらしいという話は聞いて、多分噂になってたんでしょうね。13日で前線から戻ってきたらしい。噂だけは流れたんでしょうね。「バカにされとるやん」それで仕事も辞めたらしいしとかってなると「ニーチェ死んだんじゃね?」っていう噂もあった。
その後少し病状が落ち着きまして、都会だとちょっと息苦しかったりとかするから、景色がいい気温の落ち着いた軽井沢とか、立山とか、そういうところ。そういうところを点々として、夏は夏の保養地、冬は冬の保養地みたいな感じで、年に2回ぐらい保養地を点々としまして、そういう生活を続けていました。
なんですけども、43歳ぐらいでですね、とうとう精神にもその病魔が及んでしまいまして、55歳で亡くなるまでの約10年間ぐらいは、体中が麻痺して
会話すらもおぼつかなくなるという、この精神崩壊の中で、母そして妹に看病されながら過ごしたと。55歳の生涯って言ってるけど、実質も43、44くらいまで。そうだね。哲学者としての仕事はみたいな感じかな。短いね。短い。しかも25、36から30代までずっと病気がちで。病気がち。そういう大変な人生だったんですね。人生でしたね。
続いて恋の病なんですが、ニーチェは生涯でおそらく一度だけ大恋愛を経験しています。出会いは1882年。体調も回復して保養地をちょっと転々としていた時期に運命の出会いを果たします。そのお相手は17歳年下のロシア生まれの作家。そう
そー?それは何?ソ連に引っ張られた?それ、ロシア生まれの作家のルー・サロメという人です。ルーさんですね。ルーさん結構年下ですわね。結構年下ですね。当時あんまり有名じゃなかったんですよ、ニーチェって。
ニーチェの作品とかってあんまりバカ売れするとかではなかったんですけど、このルー・サロメという人はニーチェの作品をめちゃくちゃ読み込んでて、めっちゃ理解してて、このニーチェとの出会いも共通の友人がいて、この共通の友人が「お前のことめっちゃ知ってるやついるぞ」「お前のことを話したいっていう風に言ってるやつがいるけど、会う?」って言って
「そんなやついんの?」とかって言って、ルーさんに会って「すごい聡明な女性ですね」みたいな。「ニーチェさん、こんにちは。私の考えるニーチェなんですけど」みたいな言って、とうとうと「ニーチェさん、あなたってこういうことが言いたいんでしょ」みたいなことを言ったら、全部合ってたらしくて。最悪じゃなかったんだ。ニーチェはこんな
像こんな解釈してくれる人いるんだみたいな、ここまで僕を分かってくれる人がいるのかと思って一目惚れします。そうなんだ、僕最初ファンに手出す若手芸人みたいだって言おうとしたんですけど、まだ売れてないけど
一部チヤホヤしてくれる人がいてみたいな、かと思ったけど、そこまで思想的にも理解してくれる人だったら、そうですよね、僕のこと理解してくれてるって強く思ったんでしょうね。なんかお笑い芸人といえばさ、ロバートのめっちゃファンだった人がさ、あれ出待ち少年みたいな、メモ少年、メモ少年いるね、メーテレに入ってロバートの番組を作るまでになったっていう、いますね、いらっしゃいますね、多分そんな感じ、そういうタイプか、ドハマリみたいな
子供の頃からロバートさんの意味のわからない、めっちゃメモってるね、やばい青年がいたけど、メモ少年がいた。彼はめちゃめちゃロバートのこと理解してるでしょ。そうだったんです。ルーっていう人いいですね。ニーチェも自分のことをこんなにしてくれて嬉しい。ルー・ザロメもニーチェのすごい共感している、大好きなんだからね、作品がね。二人は急接近するかに見えたんですけれども
あら、はい、ここに恋の火種が現れます。それがニーチェにルーを紹介した共通の友達なんだよ。そいつはパウル・レーと言います。どういうつもりで紹介したんだよ、どういうつもりで紹介したんだよって思うじゃん。こいつニーチェのことめっちゃ好きだから、俺ニーチェに
合わせられるよみたいな、あーまあありそうね、ありそうね。そう、俺芸能人の知り合いで、そうそう、一緒に飲み会じゃあセッティングするよみたいな、そんな感じ、そんな感じです。あーいるわ。ニーチェに間を取り持ってもらいたかったんだけど、ニーチェが思いのほかルーに接近してしまい、結婚に至ってしまったという関係だったんです。あー、ルー・ザロメ。そういう意味でも思いがけなかったな、その友達からしてもね。あれ、めっちゃ接近やんけ。そう、こんなはずじゃ
そんな感じで、お互いニーチェはレーを、レーはニーチェを、どうやって出し抜いて、その恋愛バトルが、そう始まったのか。そう、なんか俺ちょっとその日行けないからとかって言って先回りして、ははは
よーと思ったら、お互い先回りしてて、3人で鉢合わせちゃったとか、かわいいエピソードだね。そうなんだみたいな、あらかわいいねっていうこともあったらしい。真剣だね、本人たちはね。ニーチェは出会って3週間後にルーに結婚を申し込みます。それもね、先手必勝ってことかね。やべえと、スイスのルツェルンっていう町の公園にある綺麗なライオンのレリーフがあって
ってですね、死にかけのライオンみたいなレリーフがあって、戦争の慰霊碑みたいなのがあったんですけど、そのレリーフの前までルーを呼び寄せて告白します。「結婚してください」。今のところいいですかね。出会いからもすごい、あっちも来てくれてね。「NO!」
なんでですか?断られてしまいます。なんでですか?僕の作品のことあんまり理解してくれたじゃないですか。ニーチェになってる、ニーチェになってる。「僕は恋愛に弱い男性の味方ですから」。ちなみにパウル・レーもすでにプロポーズしてたんです。そうなんだ。これもノーだったと。じゃあその情報キャッチしてたのかな、あいつダメだ
俺のために断ったみたいな、かもしれない。もういけるやろと思ったら、思うよね。「ダメです」。なんでだ。「なんでかと言いますと、なんかルーはどっちも選べなかったですね」。優しい、優しい嘘ですね。ニーチェもいいし、優しい嘘って思うじゃない?思いますよ。「この後3人で共同生活しませんかって言うんですよ」。それは良くないよ。惑わせるね、その女もね。良くない女だね
男を惑わせるルー・ザロメに「良くない女」って言ったのお前が多分初めてだと思う。良くないわね。ちょっと惑わす魔性の女ですね。ただニーチェはね、やっぱり恋愛の経験があんまなかったんでしょうね。「やったー!」って思って、「えーー」
舞い上がりまして、近くに霊もいました。呼んで、なぜか近くにいました。仲いいのか悪いのかよくわかんないね、3人組で。ニーチェはもう浮き足になっちゃってるから。そうだね、大好きな人と、まあまあ同棲という意味では一緒だからね。同じ屋根の下で住めるのは、まあまあ舞い上がるのはわかる。「記念写真撮ろうぜ」って
陽気だね。写真好きだね。写真好き。残ってんの?残ってます。結構有名な写真なんですけど。面白いね。これも振られたけど、同棲できるぜきに、そうです。絶対これ
絶対この後良くない方向に行くじゃんね。それはそうです。100%。これ写真もちゃんとした写真じゃなくて、悪ノリみたいなコスプレ写真みたいな感じになってて、ザロメをですね、荷車の上に乗せて、手綱とムチを握らせてですね、御者みたいな感じにする。で、ニーチェとレーの腕に手綱が結ばれててですね、で馬役になってるポーズを撮ってるみたいな。舞い上がった。
ルーもなんかムチこうやって振りかざしちゃったりして、ノリノリで、ノリノリで、という写真があります。「どうせあなた良い男ができるまで保険として取っておくことしか思ってないんだから、どうせ」
解像度高いね。「どうせそうだよ、そんなもんだよ」。ちなみにパウル・レーという人は兄ちゃんの逆でめちゃくちゃ写真が嫌いで。「あら、よく乗ったね」。その写真にすげー引っ張ったんだ。多分「撮ろう撮ろう」とか「やらせやらせ」ってそうで、渋々撮ったんだけど、この写真を見るとまんざらでもなさそうな表情で写ってて
ニコみたいな感じで写ってて。「大好きな人もいるしね」。で、この写真がパウル・レーをちゃんとした姿で捉えた唯一の写真として残っています。パウル・レーはいろいろ頑張った。有名になろうと思って頑張ったんだけれども、結局地方の医者みたいな感じになって、なんか詩人とか哲学者になりたかったんだけど、あんまり泣かず飛ばずで、そういう方面ではちょっと
で、なんかお兄ちゃんのツテを頼って地方で医者になって、でそれもなんか無料で診療してたんですって。無料診療所みたいなのをやってて、生活が立ち行かなくなって、その後崖から飛び降り自殺をしてしまうという方なので、ニーチェの恋の火種としてしか今歴史に名は残してません。その方の唯一の写真が浮かれたコスプレ写真
っていう風になっております。一生の不覚でしょうね。はい、多分最後の走馬灯で出てきた時に「あの写真撮んなきゃよかった」「馬役になってた」みたいな。それが最後の、多分思いでしょうね。ちなみにルーはですね、この後レーと接近しまして、3人で共同生活は結局提案したんだけど、1回も実現しないままニーチェを置いてですね、レーとルーで別のところに行ってしまって。「その場しのぎかよ!」
マジかよ。ただその移動したところでですね、オラオラ系のドイツ人のですね、イラン学者、イラン学者。ペルシャ語とかを研究してた人がルーにね、ちょっと一目惚れしまして。「おいルー、俺と結婚しろ」みたいな言ったら、ちょっと霊もたじたじになっちゃって、結局ルーはその人と結婚するんですよ。そういうのに弱いんだから、もう本当にね、結局
オリエンタルな感じで、オラオラ系のね、ちょっとインテリっぽいんでしょうね。インテリっぽいオラオラ系ってやっぱりKOボーイみたいな感じだよね。上流階級出身でね、僕らみたいな貧しい地方から出てきた奴らとかが「うわすごいな、この人たちすごいな」と思ったら、そういう奴らが大体可愛い子たちを取って。「お前のコンプレックスじゃねえか」「全部KOボーイに取られた」みたいな感じですよね。憎し、KOボーイっていうね。結局この人と結婚してしまうという風になっております。KO技術大生は強いからね、恋愛主張においてね
僕的にはこのニーチェがライオンの像の前でプロポーズをして、その後浮かれて不機嫌で写真を撮った、この日がニーチェにとっては人生で一番幸せな時だった、瞬間だったんじゃないかなと。人生のね、浮き沈みグラフやると、5歳とこの時点でM字なんでしょうね。はい、と思います。そう思う理由ちょっと実は2つあって、43歳時に鳥の
イタリアのトリノですね。ここで発狂したらしいんですよ。「トリノでは発狂したの?うわー」みたいな感じになったでしょうね。それのきっかけがですね、馬車屋の前で馬が鞭を打たれてるのを見て涙を流し、馬の首にしがみついて、「おいおい」泣いて、そのまま混沌してしまったという逸話が伝わっています。なんか投影したのかなと僕は思うんですよ
確かに
ザロメに鞭打たれる自分を多分思い出して泣いたんじゃないかなと思っておりますし、悲しいな。その後ですね、精神病院にニーチェが送られるんです。その病院の中でニーチェはずっとね、近眼で絵が苦手だったんですよ。言ってたね。けどその時人生で唯一絵を描いてるんです。何の絵を描いたかというと、ライオンのレリーフの絵を描いてたんです
悲しいな。精神が錯乱して、もう自分が何なのか分かんない、何者なのか分かんないみたいな時に、あの日の記憶だけが兄ちゃんの支えになってたんじゃないかと思います。支えでもあり、いろいろ後悔とかもあったんでしょうね、と思います。あの時ルーが結婚をイエスと言っていれば、兄ちゃんの人生はまた変わっていたかもしれません。ルー・ザロメ
3人で住もうって適当言いやがって、その場しのぎじゃねえかよ。これが絵ですね。これがライオンで、これが実物ですね。弱々しいライオンが。そうだね、もう倒れてるね。スイスの旗を持ってるんですけど、精神病院の中で抱えられた絵ということでございます。悲しいなぁ
3つ目の病は中二病でございます。なんか言ってたね、冒頭で。これは僕のふざけたカテゴリー分けなので、ゆる鉄流と思って許してほしいんですけど、ゆる鉄がクラシアですかね。ここでは一応中二病。いろいろな症状があると伺っております。聞きますね。私も経験ありますけど、中二病。ここではですね、すごい偉人と自分を同一視する
あとは何かにつけてカッコつけたことを言うとか、そういう行為を指しております。大体そんな感じですね。例えばですね、晩年にこんな手紙をですね、愛弟子のペーター・ガストという人に出しています。今からちょっと読み上げますね。「我が学生ピエトロへ、私のために新しい歌を歌え」
「世界は浄化され、全天空が喜んでいるのだから。十字架にかけられたものよ」。これニーチェが発狂した後に書かれたらしいんですけど、これを読んだ愛弟子のペーター・ガストは発狂に気づかずに返事をしています。「何言ってんだ?先生、いつも通りだ」とか。「普段からそんな感じだったのか」。ニーチェが発狂したという知らせを受けた知人とか友人の反応はやはり
「まだ狂ってなかったのか」とかっていう反応が主だったらしいですね。完全にポエムですね。その時期に書く。そしてですね、かつての同僚にもこういうのを送っております。ブルクハルトというですね、仕事の同僚ですけども。「私が世界を想像するという退屈を多めに見てきたのは一つの小さな冗談でした。ところであなたは」
「君は私たちの偉大にして最大の教師です。というのも私はアリアドネと一緒に全ての事物の黄金の均衡を示していれば十分なのであり」みたいな手紙を書いてたらしいんですね。はい
これにブルクハルトという人は「こいつおかしくなったな」と思って、もう一人の友達のオーバーベックという人に「ねえ、こいつこんな手紙送ってきたんだけど、どう思う?」って言ったら、オーバーベックは「そんなかな」みたいな、「まあ大丈夫じゃね」って思ってたんですけど、翌日そのオーバーベックの元にもニーチェから手紙が来まして。「僕はちょうど反ユダヤ主義者どもを射殺させようとしているところだ。ディオニュソスっていう」
という手紙を見て、オーバーベックは「やばい、これ」と思って、「やばいね」トリノに直行したらしいです。あら、やばいわね。愛弟子は「いつもの先生だな」と。ただ同僚からしたら「こいつやばいな」みたいな感じで。もう一回そのさ、ドイツ語で書かれたのかな?これはドイツ語の文章とかわかんないですけど、「あなた」と「君」を言い換えること
とか、なんかさ、「g」と「do」かな?日本語でも、なんか中二病ポエムとかで使われそうなテクニックだなと思って、笑っちゃったんですけど。「何時」みたいな。そう、あえて2回使うとかね。「何時」は「あなた」を言い換えるところまで残すとか、テクニックを見せびらかされて、ちょっと笑っちゃいましたけど、それでございます。ちょっとわけわかんないですね。まあ、ちょっと様々な文言が並んではいるんですけど、ここで注目してほしいのは「アリアドネ」とか「ディオニュソス」
とかって、これギリシャ神話の登場人物なんですね。「反ユダヤ主義者を射殺する」ではない。違う違う、そこは注目しない。「ギリシャ神話だな」っていうところはちょっと注目してほしくてですね、これ、その神様
アリアドネもディオニュソスも神様なんですけど、ただ単純に伝説上の神様と自分の話を同一視したんじゃなくて、これ他でもないギリシャ神話が引用されてるっていうのが、これニーチェの理解には欠かせないところなんですね。今まで職場とか仕事の都合とかってちょっとぼやかしてたんですけど、これ何かというと、スイスのバーゼル大学という大学の古典文献学の教授
でございました。古典文献学。ニーチェは古典文献学という学問が専門で、これどういう学問かというともっぱら古代のギリシアとか古代のローマとかの時代の文献、パピルスとか
石板とか、そういうレベルですよね。そういうのを見て読んで、今までこの文章はどういう風に伝わってきたのか、誰と誰の手に渡って、誰が写本を生み出して、写本がどうコピーされてみたいな、いつ手が加えられたか
どれぐらい正確なのかとか、本当の文書はどれかみたいなことを研究する分野なんですけど、これにニーチェはことさら才能を発揮します。なのでギリシャ神話に明るかったというのは、ニーチェの専門分野だったからなんですね。発狂した状態でも自然と出てくるんだね。出てくると、そういう状態だったわけです
ここでニーチェの学問の話をちょっとするんですけど、ニーチェね、私立の一律の学校に通っておりました。ナウムブルクというドイツの街、ナウムブルク私立第4小学校とかに通ってたんですよ。この時から成績優秀。大学以外はよかった。今体育ダメなインドア少年の情報しかなかったので、得意なことがあってよかったです。成績優秀です。そこはよかった
で、やがて東大随一の優秀な生徒が集まるですね、プフォルタ学院というところが目に留めて、スカウトを受けます。すごいね。「フリードリヒ・スカウト」そう
へー。「来ないか?」すごい。野球の話一番最初にしましたけど、野球のスカウトもやっぱ中学の野球とか見て、そうだね。高校がスカウトする、だいたい甲子園校とかね、スカウトされますからね。「PL学園」とか。「うん、人吉商業」とか、もう古くない?なんか「岩手水沢」とか、「PL」とか、もう今存亡の危機らしいですからね。「秋田工業」とか、最近だと何?「愛工大名電」とか。「うん」
一両最近と言いますか、そういう甲子園校がスカウトしに来るわけですけど、ギリわかるよ。このプフォルタ学院は野球じゃなくて、古典学の名門校。すごいね。そんなスカウト制度あったんだ。このプフォルタ学院は1日の学習時間の半分以上を古典ギリシャ語とラテン語に
当てるというですね、学校でございました。すごいね。ただ兄ちゃんも行きたかったですけど、やっぱお父さんも亡くなってるし、親戚からね、いろいろ援助もらって、でお母さんが一人で働いてて、一律の学校行ってるんですよ。ナウムブルクの私立じゃないんですよ。そうだね。「どうしようかな」と。学費とかもあるのかな。そう、学費も高いんですよ、プフォルタ学院は結構するんですよ。「どうしようかな」と思ったんですけど、ナウムブルク氏がですね、「出すよ」と
相当優秀だね。「奨学金として出します」と。「へー、すごい」。はい、と言ってニーチェを通わせます。このプフォルタ学院でも優秀な成績をニーチェは収めまして、ここに6年通います。14歳から20歳までです。で、卒論を書いて卒業するんですけど、「メガラのテオグニス」っていうギリシャ時代のですね、古典期の詩人について論文を書いてですね、卒業しまして
ボン大学に通い始めます。ボン大学に通い始めた当初は母親に気を使って、最初はね、「進学」うんうんうんうん。聖書とかの学部をまあ専攻するんですけど、途中やっぱ自分がやりたかった古典の文献学をやりたいと思って、そっちに専攻変えます。そしたらライプツィヒ大学というですね、違う大学に古典文献学の優しい先生がいるって思って、ボン大学を1年で辞めてライプツィヒ大学に編入します。「おー」
で、そこでですね、古典文献学の大化、リッチュルという人に会ってですね、「自分こういう論文書きました」と言って、すごい卒論書きました。すごい卒論を出します。リッチュルもですね、だいぶもう古典文献学の大化です。「ようーん」
名誉教授みたいなもんの人がそれを見てびっくりして、「最初さ、学部生から論文書きました」とかって言われて、若干ちょっと舐めてたんですよ、リッチュルも。「我々のような大学生はだいたいふざけた卒論しか書いてませんからね。それで見るけど」って思って、ページをめくって読んでいくと、どんどん吸い込まれていく。「こいつはすげえ」と思って、リッチュルは自分で雑誌を主催してたんですよ。学術誌を。「リッチュルがいい」
「いいよ、掲載して」って認めた古典文献学の論文だけを集めた雑誌があってですね、そこにニーチェの卒論を載せます。「すごい、かっこいい」。これはリッチュルの長い研究生活の中でも最初にして最後、そんなやつはいなかった。学部生の、しかもその前のプフォルタ学院で書いた論文が一流の学術誌に載ったというのはなかなかないことだったと
俺も大学入学するときはその予定だった。「すげえ卒論書きで」って思ってたんだけどな。だとしたらこれライプツィヒ大学で起こったやつなんで、高校生の頃に書いた論文を
学術誌に載せないとダメなんですよ。書かないしね。ニーチェの会心劇はまだまだ続きます。今のがすごいね。振動からそのまま天才になったそうです。ゆる哲学ラジオでもね、2回目ぐらいに扱ったんですけど、「ディオゲネス・ラエルティオス」という哲学史をまあ
書いた人。哲学者のエピソードをいっぱい集めた人。略してDLね。はい、DLでございます。この人の文献学的な研究をしまして、画期的な成果を次々と発表します。ここでですね、24歳で
バーゼル大学から教授としてのオファーがきます。24で教授。「すごい」。この時はちょっと院外教授という風に言って、日本でいうところの準教授なんですけど、そういうオファーが来て、ただね、これ24歳ですよ。学部生です。ニーチェ。「おー」
バーゼル大学の学部生にバーゼル大学が教授のポストを。「すごいね」。はい。「そんなことあるんだね」。はい。当時ドイツでは教授資格っていうのがあって、教授資格論文っていうのを書いて、それをパスしないと教授にまずそもそもなることができなかったんです。一個試験的なものがあるんだね。はい。ニーチェはそれもやってませんし、学部生なんで
博士号すらないのにライプツィヒ大学は例外として、無試験で教授資格を与え、全ての授業を任せる。博士号も授与する、という状況だったんです。すごいですね。僕みたいな凡人は、他大学の学部生に教師のポストを奪われたらバカにされそうとか考えちゃいますよね。格が下がるみたいな。だって、他大学の学部生ですよ?「あなたの大学の学部生は、うちの教授レベルです」と言うには相当の勇気が要りますね。確かにそうだね。バーゼル大学としても「なんで我々が学部生に教授職を譲らなきゃいけないんだ?」ってなりますよね。相当優秀だったんですね。天才ですね。それにリヒャルト・ワーグナーからの強い推薦もあったし。ああ。
ニーチェはすごいぞ、というのもあり、ニーチェは見事教授の職に就きます。これが
不服従戦争に従軍しようと思い立ったのは、たった2年前。24歳、いや26歳でしたね。なんでそんなことを言ったんだろう?時系列が…そうか。はい、そうです。以前とかじゃないんです。一時期浪人して迷ってたとかじゃないんです。そんなことしないんですよ。振動はめちゃくちゃ。天才でも、全てがうまくいくとは限らない。教授職を得て、
2年後には宇宙戦争に行こうと思った。それは不思議ですね。なんでだろうね?スイス国籍だしね。謎だなぁ。
今回は、ニーチェがこれほど病に侵されていたという話をしました。残りの2つは恋の病と中二病でしたね。恋の病は大きかったですね。実はニーチェは「自分こそ健康であり、世界こそが病気なのだ」と主張していました。なぜそんなことが言えるのか、それは次回扱っていこうかなと思っています。それだけ聞くと、超多色思考のヤバい感じですが、大丈夫ですか?これがね、全然違うんですよ。「なるほどな」と思うはずです。俺が悪いんじゃない、社会が悪いんじゃない、それ多色思考じゃない。実際社会が悪いから、という風にね。次は兄ちゃんの哲学から病気と健康について迫っていきたいと思います。はい。え?
ちょっと今、ドゥルーズ語りをやれという司令が外から飛んできましたので、ドゥルーズ語りの時間とさせていただきます。分かりました、ドゥルーズ語りですね。やりましょう。じゃあランダマイズしていただいていいですか?いきまーす。36番、96番。36、96、三郎九郎ですね。お前じゃねえか!三郎して九郎した。
はい!いい筋だ!今週のドゥルーズ語りワードは「モーツァルト的没入」でございます。結構最近ゲームやる時に「没入感」とか言いますね。その没入と、これも振動の話ですね。モーツァルトの曲に没入した、じゃないですよ。モーツァルト的没入とはどういう没入なのかということをコメント欄でぜひ教えてください。はい。
ラジオネームがあるという方はですね、一番最初にラジオネームを書いていただいて。「ラジオネーム:ハンペンおもち」みたいな、ブルーズ語りみたいなネームですね、書いていただいてから「モーツァルト的没入とは?」という説明を始めてください。お願いします。ベストアンサーは雑談会で発表したいと思います。ということでね、今回はニーチェの生涯について触れてきました。以上としたいと思います。ありがとうございました。ありがとうございました。