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cover of episode カントが見つけた、哲学の究極の土台。#125

カントが見つけた、哲学の究極の土台。#125

2025/5/17
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ゆる哲学ラジオ

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平田
Topics
平田トキヒロ:私はカント哲学の核心である「アプリオリな総合判断」について解説します。当時の哲学はヒュームの懐疑論によって危機に瀕していましたが、カントは普遍的で必然的な知識の基盤を確立しようとしました。彼は、経験に先立つアプリオリな知識と、経験に基づくアポステリオリな知識を区別し、さらに分析判断と総合判断という概念を導入しました。ボルフ学派がアプリオリな分析判断に偏っていたのに対し、ヒュームは総合判断をすべてアポステリオリだとしました。しかし、カントは数学のように普遍的で必然的な知識が存在することから、アプリオリな総合判断の可能性を追求しました。このアプリオリな総合判断こそが、哲学、科学、数学の強固な土台となると考えたのです。私は、カントがどのようにしてこの難題を解決しようとしたのか、その過程を明らかにしていきます。 よしのぶ:私は平田さんの説明を聞きながら、ヒュームの懐疑論に陥りそうになりました。経験に基づかない知識など本当に存在するのか、すべては主観的な解釈に過ぎないのではないかという疑念が湧いてきたのです。しかし、数学の例を聞いて、確かに5+7=12という答えは誰にとっても普遍的で必然的だと気づきました。これはアプリオリな総合判断の可能性を示唆しているのかもしれません。ただ、総合判断にアプリオリ性を見出すのは非常に難しく、本当に可能なのかという疑問はまだ残っています。カントがどのようにしてこの難題を解決したのか、次回を楽しみにしています。

Deep Dive

Chapters
カントは、ヒュームの懐疑論をきっかけに、哲学の新たな土台を築こうとしました。その鍵となるのが「アプリオリな総合判断」です。既存の哲学が経験に基づく「ア・ポステリオリ」な判断に頼っていたのに対し、カントは数学や自然科学のような普遍的で必然的な「アプリオリ」な判断を探求しました。
  • カントは哲学の新たな土台構築を目指した
  • ヒュームの懐疑論が哲学の危機をもたらした
  • アプリオリな総合判断がカント哲学の重要な概念

Shownotes Transcript

Translations:
中文

フロイセン生まれの哲学者カントでございますけれどもそうでしたねルーツはスコットランドにあったというお話を前回前々回とかでちょっとしたんですけどしてましたその当時哲学という学問は瀕死状態にあったんですよね何でもかんでも合理的に考えられるよみたいに考えてたんだけどそれボルフ学派という人たちがいたんですけどスコットランドですねデイビッドヒュームという人がなんか

なんかそれ全部まやかしじゃねみたいなそういう習慣ができてるだけじゃねみたいな批判をしてきてなんで哲学って所詮こんなもんかみたいな感じで下げ隅の対象ということでカントは哲学を諦めきれないということで新しい哲学ちゃんとした哲学を俺の手で

新しく作り出そうというですね人生をかけた一大プロジェクトに乗り出すんですけどそのキーとなる単語がありましてアプリオリな総合判断という言葉があるんですけど何ですかアプリオリアプリオリな総合判断美味しそうですね何ですかプリンみたいな話ですかアップルっぽいしプリンっぽいしねこれが何が何だかまあカント哲学の一番重要なうーん

単語と言ってもいいかもしれないし今日ちょっとねそれの解説をしていこうかと思いますお願いしますこの哲学史のプロジェクトではプラトンカントニーチェというふうに 3 人挙げた中でカントって真ん中の人なんですけどプラトンの話もちょっとつなげてしたいんですけどねプラトンによるイデアというものありましたね理想を追い求めなきゃいけないとか現実世界とは違う世界があって

その異なる理想の世界を追い求める裏の世界をそういうこと現実の裏みたいな世界があるこの理想っていうものの性質の話なんですが性質この理想というのは普遍的もう

いつの時代どこの国であっても当てはまるようなものではなくてはいけないしこれは各自の経験によるものではあってはいけないと理想ってこういうものだよねっていう本当の理想ってなんかそんな気がするよね俺はそんなにいいと思わないいや俺は思うってそれなんか全然理想じゃなさそう経験によるってそういうことだもんね例えばさ理想の仕事の仕方みたいなのうん

を考えた時に各自の経験によってるっていうのは例えば居酒屋で俺の方法が一番正しいからみたいな三方よしだから俺のやり方に従っておけばいいからみたいなのって別にそんな理想の仕事かとか

っていうと究極そうじゃないそうじゃない気がするよね本でさ理想の仕事術って書かれてさ見たらさ A さんの場合 B さんの場合 500 人分ぐらいだって 500 人分それぞれの理想がありますって言われたらはってなっちゃうなんだこれってなります

究極の理想じゃないよねじゃない気がするよねそういう人たちが経験した中での理想の話だよねそうだねこれを探求しますって言ったらじゃあこれって学問ですかって言われたらさそれを集めてるだけですよねみたいな感じになっちゃうじゃん人生経験語語るだけみたいな感じになっちゃいますね

そうなっちゃうんですよやっぱり哲学は普遍的なものを探求しなきゃいけないしそれは経験によってはいけないですよということが哲学に課せられた要求だったんですよね理想を求めるものだったからねそう普遍的な理想みたいなのを探求するからこそ

哲学は学問足り得たわけなんですけどそれに対してヒュームという人が普遍ですかみたいないうツッコミをですねスコットランドから浴びせかけたわけでございますそこでちょっと哲学を土台がぐらついて哲学ってこのままやってても意味ないんじゃないかなみたいなっていうのでもうガラガラガラっと崩れちゃったわけですよ理想を求めて何千年と思ってたら全然経験によってないみたいな感じそう言われてあれれ?あれ?

何やったんだっけみたいな何かをやればいいんだこれからみたいな感じだったとということでカントはじゃあその崩れちゃったものがあるから土台をねまずはしっかりと土台作りから作らなきゃいけないと先人が作った土台に乗るんじゃなくて土台もまず自分で作るとそうですすごいねまずは自分で基礎工事をしてからですねすごいですね基礎工事をしてから上に上物を立てるということ上物って言うんですね立てなきゃいけないんですけど業界用具館なんですね何かモデルにしたい

やっぱり一から考えるのはちょっとめんどくさいから何かそういう普遍的なものとか経験によらないものを積み重ねていけているような他の学問ないかなと思って関東はですね数学とか非科学とか自然科学とかこういうのって普遍的だしつまりその古代のギリシアでゴータスさんをやっても 8 だし現代の日本でゴータスさんをやっても 8 で

普遍的ですよねしかもこれって経験によらないというか誰がどんな境遇の人間がやってもそういう結果になりますよね俺は 5 足す 848 でやってきたからとか言わないですからね言わないでしょ通学とか氷とかねいつでもどの時代でも一緒みたいな感じしますよねはい

関東の時代には結構この数学とか自然科学というのは割とメジャーというかすごい発見がいっぱい色々あって例えば 17 世紀の有名な数学者ネイピアさんネイピアさんネイピア数でおなじみの名前残ってますね対数ログの記し方を発明しためちゃめちゃ使ってましたね高校の時ね前後あるらしいですけどね対数のやり方やったのも他の人がやってたけど

発表してなくてみたいなネイピアが先に発表しましたみたいなどこかで石文の話とかしましたけどやりましたねそんな感じあったでしょうねでもそのぐらいだからいろんなところで同時多発的に数学とかが盛り上がってた時期なんだねあと科学の方でも例えばボイルの法則のお

ボイルさんとかニュートンガリレオガリレオこの辺 17 世紀です黄金時代ですね黄金時代ですねオールスターですねこういう人たちが数学とか科学とかっていうのをすごく盛り上げていたとでまさにボルフ学派と言われる人たちは数学とか科学とかを模範にして数学を元にした哲学とか科学を元にした哲学みたいなのもやってた

いいじゃんこれだけだと何も変わらんと結局ボルフ学派がやってることをそうだ今やってるの一緒だよねカントがやってるだけでヒュームが科学とか全部習慣ですしみたいな言ってきたんだね単なる思考習慣に過ぎませんしみたいなこと言ってきたから

これをただただ踏襲するだけではダメでしょうとそうだね崩れたの同じように積み立てるそういう風になってしまうんですよじゃあどうするということでですねカントはここで考えるんですよ人間って超有限じゃんと無限な存在では絶対ないよね

寿命も短いしさそうだねやれること少ないしねやれること少ないしさ勉強したいことはいっぱいあってもさピアノもバイオリンも弾けたらいいなとは思うけどさ人生って短いじゃないそうだねいう中でなんで数学とか科学とか普遍的だと思えるものを探求できるんだろうこのちっぽけな脳みそでとそもそもなんで

って思うわけですよ習慣だよって言われたけどなんでそんな習慣持ってんのみたいな感じですかそこなんですよ今までボルフ学派という風に言われる人たちは数学とか科学とかを憧れみたいな感じに思ってこういう風になりたい哲学もこういう風な普遍的な

探求をしたいとかって言って形だけ真似してたみたいな感じねカントから言わせればなってたのかもしれないというところでカントはもうちょっと深掘って考えた方が良くないなんで数学とか科学とかが普遍的なのかなんでそんなことを人間ができるのかその科学とか数学とかが普遍的だというベースが分かればじゃあこのベースから哲学を作り出せばこれは普遍的だ

普遍的に同じようになりますよねと今までは数学とか科学っていうのがどんなベースをしてるのか分かんなかったけどその上に哲学が乗っかろうとしたからガチャガチャガチャって崩れてしまったとベースを探そうということで土台をめっちゃしっかりしようとそう普遍的じゃなくね思考習慣なんじゃねって言われて崩れるような土台作んなとはい

もっとしっかりした土台を作りましょうと作りましょうと言ったんだなということでじゃあ土台を探しましょうということでカントはですね哲学のお医者さんとしてですね今この病気のように起こっている論争状態の病気の原因は一体何なのかということをですね探し求めるわけです

まずはね問題の所在を明らかにしましょうということでこんなにこう哲学が混沌としてしまっている原因は何かとカントとしてはボルフ学派の教育をずっと受けてきてだったねプロエステンがもうなんか本拠地みたいな感じだったんでしょそうですボルフ学派の本拠地です中でカントは育ったのでボルフ学派の言ってることもはいはいわかるわかるでヒュームが

言ってきたそれってただの習慣じゃないですかみたいなのも確かになって分かるなみたいなどっちも理解できるんですよどっちも確かになんかおかしいところあんまないなっていう風には思っていたんですよじゃあねこの議論の中のどこに間違いがあるのか何をこんなに対立してしまっているのかということをですね考えてですねこの人たちはどういう風に言ってるんだろうヒュームとかどういう風に言ってるんだろうみたいなことを考えていくと親と

この人たち話噛み合ってないわ全然違うこと言ってるわということをですねカントは気づいてこれをですね 2 種類の概念で整理します 2 つそれぞれペアであるんですけど 1 つはアプリオリとアポステリオリというものですこれちょっと 1 回ね 1 回じゃ流します 2 個目がですね分析判断と総合判断というものです

まあまあまあ一回流しましょう今回ちょっとね単語の説明なんですけどアプリオリとアポステリオリというのはそれぞれアプリオリは前もってみたいな意味です前もって前もって例えばさあのプリとかさプレとかってさ前もってみたいな感じで使われたりするじゃないですかプレオープンしましたそうそうそうそうそれのプリですなるほどそういうことかこれがアプリオリ前もって前もって

でアポステリオリはポストあの人のポストはみたいなとかポスト構造主義がとかポストモダンがとかそうポストモダンがみたいなモダンポストモダンポストポストモダンみたいな感じがあるじゃないですかはいはいはいなんかあるみたいですねそのポストですはいこれは

ある出来事があったその後にっていう意味です前と後なんですね前にっていうアプリ寄りと後ろにっていうアポステリ寄りこの 2 個をですねまず分けますこれ分けてアプリ寄りというのはじゃあ何の前アポステリ寄りは何の前なのっていうとこれ経験なんです

個人的な経験経験よりも前にあらかじめ知っていたりとかすることをアプリよりという経験した後に判断したこととか知ったこととかというのを

アポステリオリと言いますこれ結構重要な区別でこれカントの見出した特徴はアプリオリなものっていうのは普遍的であって必然的である結構大事だね大事大事誰がやってもこれは同じ結論にというのがアプリオリなものですアポステリオリなものっていうのは経験に染まった後なのでそれは個人の経験が

ちょっと入っていたりとか私色に染まっているようなものはこれは全くの偶然性しかないですよねとという風にアップ料理なものとアポステリアルなもので分け合います次に分析判断と総合判断というのがあるんですけど分析判断というのは難しく言うと難しく言うとどうなるんですか

簡単に言うと難しく言うと論理学とかが絡んできて主語概念と述語概念の話とかになったりするのでざっくり言うとですね例えばコップってあるじゃないですか水のグラスかなこれはグラスがあるじゃないですかグラスには水を入れられるが分析判断ですまあそりゃそうでしょうねっていうことしか言わないの分析判断と言います

グラスってそもそも水を入れるために作ったものだから水を入れられますというのはまあ当たり前ですよねそうだねということですこれが分析判断分析判断はいこれカントの例は全ての物体は広がりを持つというのは分析判断であるという例え言ってるんですけどまあここはまあ深入りするとねまあそうだよねちょっとごめんなさい言えなかった私はカントはちょっと難しい例えを出すのでああ

カントね文章で読んではいはいなるほどねって思っても例えがね理解できなくて俺の理解間違ってるかなっていう普通逆なんだけどね例えだけしか理解しなくて本質理解しないはよくあるパターンだけど逆なんだね本質の方が理解しやすくてそうあれ例えが分かりづらい例え違くないみたいなのが結構あるのがカントのね難しいね僕の例えは

全てのキュウリは食べられるみたいなのが分析判断ですほぼそうだよねキュウリという野菜はね野菜っていうくらいだから人間が食べられるように品種改良してきたんだからそれはそうでしょうそれはもうキュウリというものがそもそも食べられるものというところで概念化されたものでしょう当たり前ですよねというのが分析判断です総合判断というのはそこに入ってないものを持ちます例えばこのグラスは円筒形であるとかね

別に四角いグラスもあるからそうだねそれはそうとは限らないそうとは限らない経験によるじゃないですか丸いグラスしか持ってない人はそれ必然的だっていう風に思うかもしれないけど別に四角柱のグラスだってあるしその地域で四角柱しか使ってませんだって

はい。いや四角柱でしょって思うしね。とかなるでしょ。これが総合判断なんです。総合判断。なんかグラスっていう概念からは必然的には結びつかないよねっていうものがくっついちゃってる。でもまあそんなに離れてもないというか。まあそうだね。全然あめこめのことを言ってるわけじゃなくて。あんまり離れすぎると嘘になる。

かなそうです 偽命題になるからそれはなるほど必ずしも含まれてるわけではないけど含まれててもおかしくない含まれててもおかしくないようなものが総合的判断総合判断ですねこれちなみに関東の例は全ての物体は重さを持つというのは

総合判断であるって言ってるんですけどえーっていう感じですよねわかんねえ俺あそこまでちなみにこれなんかねどっちも総合判断感ありますけどね広がりを持つ広がりを持つも僕にはよくわからないんで広がりを持つって言うたら大きさを持つというものですあー

全ての物体は大きさ何らかの大きさがあります大きさがあるものを物体と呼んでるからっていうことかそういうことですそれだから分析案内所そう言ってよそういうことです広がりとかねもっと難しい延長って言ったりするんですけどそういうことの物体は延長を持つとかって言われて延長なんかカラオケなんか 2 時間経ったからなんか電話来て延長でみたいな

それやっちゃうとちょっと分かんなくなっちゃうんですけどちなみにこれカントが全ての物体は重さを持つというのは総合判断であるというのはなかなかの敬願だと思って最近やっと質量ゼロの物体みたいなのが考えられるようになっていてコースとかグルーオンとかっていう粒子は

質量ゼロという風に扱われているらしいですなので重さを持つというのがただの経験習慣に過ぎないよねさっきのグラスって円筒だよねと同じぐらいのレベルだということが今明らかになっているのですごいよねというところです

今このアプリよりアポステリオリそして分析判断と総合判断というふうに 2 種類の対立概念をちょっと言ったんですけどなんか分析判断ってさめちゃめちゃ取るに足らなくないですかグラスは水を入れるためのものであるすごいとはなんないじゃないですかそうだねどや顔で言われたら続きないのみたいになっちゃいますねしてきゅー

きゅうりって食べれるんだよってなるじゃないですかそうですけどみたいな感じになるじゃないですかこれなんで分析判断で取るに足らないのっていうとカントからしたらそれは必然的だからですよ

普遍的で必然的だからそんなに驚きがないじゃないですかまあそうだねだってそれで驚いてたぞウサギはウサギですみたいなもんじゃんこれをカントはアプリ寄りなものですよねと経験する前から分かってることですよねと分析判断ができるものはアプリ寄りですよねここで今 2 個やったんですけどここでですねこれをくっつけますそれぞれ

アプリ寄りな分析判断とアポステリ寄りな総合判断というこの 2 種類に分けられますついてきてますかアプリ寄りなだから総合判断とかはもうないアプリ寄りな総合判断はないんですよ今までないんですよ

じゃあくっつけるのかはいはいで例えば前回もちょっと言いましたけど正 512 角形を見たことがありますかとはいないですよねないですもちろんねじゃあ正 512 角形はいくつの角がありますかと 512 角形

ですよね見たことがないのに経験したことがないのにわかりますよねこれアプリよりの分析判断なんですよ正 512 角形は 512 の角を持つ 512 角形経験したことないですからね経験したことないでしょ多分ほぼほぼ円だと思いますけどでもそうなんですよ経験したことがないけど分析判断をすることができますこれがそりゃそうだよねっていうのはこれが普遍的で

必然的だからですよねとこれ別に月で同じことを問うたとしても 512 個核がありますよねという風になりますそれに対して総合判断というのは何かここに付け加わるじゃないですかグラスは円筒形の形をしていますとかっていう

いうのはゆるがくとカフェのロゴが入ったグラスはとかだったら分析判断みたいな感じになるかもしれないけど全てのグラスはとかっていう風に言っちゃうと間違いになるそれは違うね全然いくらでも違うものあるねグラスには円筒形のものもあるみたいな感じにならざるを得ないですよねこれが総合判断なんですよでこれは丸いものを経験してれば丸だっていうし四角いものを経験してれば四角っていうしこれは何か経験の後に付け加わった判断ということでそうだね

アポステリオリな総合判断という風になりますこれ 2 つに分けたのはカントの診断は今まで言ってきたボルフ学派この人たちは全部をアプリオリな分析判断で解決できるという風に思い込んでいるのであるとそんな感じでしたよそこに注目してそれを積み上げるっていう話をしてたよねそう

そうなんですよ合理論はこのアプリの分析判断だけで全部神とか道徳とかも解決できるという風に思い込んでいるけれどもほう

そんなことってできないじゃないですかおーそういうんだなぜなら神はほにゃららであるとか善いいことというのはほにゃららであるみたいなじゃあ神って何善って何っていうのはまた問わなきゃいけないよね確かにそれって別に全然アプリよりな概念を持ってないじゃん出てこないね出てこない違う文化にいる人に神ってヒゲモジャだよねとか言ってバンコク全員がそうだよねとはならないならないじゃないですかでしょうね俺ツルツルだと思って

全然あるじゃないですかそもそも人じゃないと思ってたとかねそう違うんですよアプリよりの分析判断は適用できる範囲って結構狭くないですかうん

なるほど全部はできないですよねそれをボルフ学派の人たちは間違ってたんですよと全然違うものなんだよねだからアプリオリな分析判断とアポステリオリな総合判断はまず全然違うものです全然違うです全然違うものなんだからもう方をいくら積み上げても全然違うものにはなりませんなりませんってことか

アプリよりの分析判断を積み上げたところでそれは分析判断の積み上げにしかならない総合判断にはいつまで経ってもなりませんだって違うんだもん全然違うものだからそうですだから数学とかの証明を哲学に適用できるかというとできませんよねと

じゃあこのヒュームあなたも間違ってます総合判断をすべてアポステリオリなものだとして拒絶したことによってヒュームは間違いを犯していたとこれどういうことかというとヒュームは主に因果関係というものを敵対しというかね

そんなものはないですよというふうに言ったんですけどそんなものはないということは分析的に見出せるようなものじゃなくて総合判断として風が吹いたという風の概念とろうそくの火というろうそくとかの概念をくっつけて

総合してで総合判断として吹いたからヒエが消えたんでしょうねみたいなのが因果関係ですよとつまり因果関係というのは人間が付け足すものですしかも総合判断をしているということはつまりアポステリオリなものそうだねさっきの話で言うとね組み合わせ逆ないもんね逆がないんですよなので

ヒュームはアポステリオリだということはもうそれはあなたの主観だということです客観ではありませんというふうに批判したわけなんですどうしようとここで思うわけですじゃあ何が欲しいかというとさっき吉野部が言ったやつが欲しいんですよどれアプリオリな総合判断が欲しいんですそういうこと今ヒュームさんは総合判断しかないって言ったんだから総合判断しかない総合判断は全部アポステリオリですアポステリオリだということは全部主観だと

あれちょっと待ってアプリよりな総合判断があれば数学とか科学とか哲学とかのベースも作れるんじゃないかというかアプリよりな総合判断がないと科学とか数学ってできないよねとゴータスさんが 8 だこれは普遍的で必然的だというふうに思っている

っているのは実はこのヒュームもボルフ学科の人たちも気づいてなかったアプリよりな総合判断というものがあるからなんじゃないかみんなそれ見落としてるんじゃないかということでカントはここで試作を深めていき

いやいや思ってたのよ 2 個ずつ概念出したじゃんはい結局一緒にするんだったらもう 1 個で語れよって言われちゃった最初にはいはいはい組み合わせるってことがあったからかやっぱ合わせるんですあーなるほどねアプリ寄りの分析判断ばっかりのやつらとうんアポステ寄りの相互判断ばっかだって言ったやつどっちも違って

アプリよりな相互判断っていうのがあればヒュームは言ってる全部相互判断だってそうですよ氷みたいな普遍的なものがあるそれもありますよっていう組み合わせができるじゃんそういうことでございますそんなものあるんですかあるんですよカントに言わせればだってゴータスさんは 8 だもんずっと

だからこれもあれだよねヒュームからするとそうじゃないかもしれないじゃないですかそういう経験しかみんなしてないからそういう教育しか受けてないからでしょ人間だからでしょけどアプリよりなんですそういうことなんですこれちょっとね本題に行く前にネットで押してたイクラちゃんのミームがイクラちゃんのミーム?ありましてご存知ですかイクラちゃんが怒った画像があって

そこにあのカントのですねセリフが貼ってあっていくらちゃんが内容のない思考は空虚であり概念のない直感は盲目であるっていうヤフチーブクロでなんか先週サザエさんでなんかいくらちゃんがこんなセリフを言ってたんですけどこれ何ですかみたいなそれが元ネタなんだけど僕これがあの

コラなのか本当にあったのかちょっと分かんないさすがにコラでしょちょっとこれは総合判断になっちゃうんでアプリよりには分析できないんですけど俺の経験者いくらちゃんだと言わないはずなんだけどこれね本当にあったかどうかちょっと分かんないんですがこれ

関東の著作にある文章で内容のない思考は空虚である 概念のない直感は盲目であるここで言われている内容のない思考というのは合理論のボルフ学派の人たちの無理よりな分析判断ばっかりやってると空虚に 内容のない思考なんで概念のない直感というのはこれ

ヒュームの全部総合判断をアポステリアルなものだと思い込んでいるということで盲目であると確かになんか全部総合的判断じゃんっていうのは直感的な気はする盲目と言い切ったのはすごいねということを批判してるわけですイクラちゃんミームはこのボルフガクアとヒュームを双方批判してはい

アプリよりの総合判断というのを見出さなきゃいけないじゃんというのがこのいくらちゃんのセリフなわけですねそうなんだ許容が必要ですねネットミームもなんかあったんですかねサザエボルフ学派に染まるみたいな感じがあったんですかねそれいくらちゃんが批判するのそうそう批判する

じゃあアプリよりな総合判断をできないのかなとだって 5+7 とか 12 だし 5+8 は 13 だしこういう簡単なものはとりあえずアプリよりな総合判断と言えそうできてますよねみんなできるどこでやっても一緒ですよねとこの足し算のさ結果

5 たす 7 が 12 は本当にこれ総合判断なんですかという話もあるかもしれないですけどいや 5 というものの概念に 12 は入ってないしたすという概念の中にも 12 は入ってないし 7 にも入ってないですよねとだからこれ総合判断なんですよとうんうんうん

この立ち段の結果が 12 になるというのは誰にとっても吉野部にとっても僕にとっても同じで俺だけマイナス 9 ですとかっていうのはないしいつの時代にやってもどの空間でやっても同じですとつまりこれは普遍必然的なアプリ寄りなものなんですけど総合判断なんです実は総合判断なんだとヒュームはこれを総合判断ってことはアポステリオリでしょとかって言うんだけど

カントからしたらそれは違うとこれは絶対不変必然なんですということは守りたいだからじゃあアプリよりの総合判断を自分たちが人間ができるということをカントは示さなきゃいけなかったわけですそれをしたのがカントの主張のですね純粋理性批判という本で行われたわけでございますカントの純粋理性批判ですねまた分厚くてすごくあれですね年季の入ったというか古本で買いました

あら安かった 400 円ぐらいでしたね二段組の贅沢に使用した二段組のですね文字ちっちゃ系すっかすかのねページ数だけお安じゃないよとじゃないですもうツメツメのやつですねツメツメのこれが純粋理性批判でございます川出書房から出ている世界の大思想 10 巻ですねもうあるかは分かりません多分古本にしかないと思います

ちなみにこの時定価 630 円俺も今思った定価 630 円だったの今買ったら多分ね 3000 円ぐらいするでしょ全然余裕で安いね安いねアプリ寄りな相互判断かなり結構難問でうーん

だって今までの人たちが見つけてなかったぐらいだからまあそうだね今のとこね足し算の例とか出てまあまあ確かにと思いつつ本当かっていう気持ちはまだちょっと拭えてないというか総合判断にアプリ折り性を見出すというのがかなり難しくて例えばさご飯

ちなみに白飯には何を乗っけるのがお好きですか納豆とかお好きです納豆とかお好きですか僕はちなみに明太子がいいですねそれもいいなこれは総合判断じゃないですかそうです完全に後半に納豆乗せる乗せる明太子乗せるこれ何でもいいですよね何でもいいアポステ料理な総合判断じゃないですか

うんまあそうだねでもカントからしたらいやご飯にはおかかじゃないとダメなんだみたいないうのがあるわけですよああまあそうだねアプリ寄りなものがそうアプリ寄りな総合判断がないといけないご飯にかけるといえばって言った時にアプリ寄りなものがあるはずってことでしょ何かがあるってことでしょ何かがある何空気とか何アプリ寄りっぽいでなんか空気中に不意

流通の埃とかだったら確かに塩と 塩 70%と酸素 30%が常にアプリより乗っているみたいな 地球だけだなそれそうだ地球だったらそうだね ダークマターがとか言うそうですよくわかんないけど ちょっとアプリよりっぽいよね意味がわかんないそれダークマター乗ってんの意味わかんないだろでもそういう話だよね そうそうそういう話ご飯に乗るといえばっていうところにアプリより的なものがそうだからこれ本当に可能なのって思うじゃん でも僕らできてるんですよ

なぜなら足し算の答えはいつでも確実だと思っているからそれはもうアップリオリな総合判断なんですよどうすんのと

人間がどういう風に思考してるかがわからないんですああまあでもそうかそう思考してるって意味でだとそうだなそう確かにそういう風に思考してるんですすでに我々は小学 1 年生の段階でももうすでにそうか今ごめんちょっと勘違いしたわヒュームっぽい考えになっちゃったああアポステ料理なんじゃないのとかっていうそうそうそうそういうことばっか考えたら違うかうん総合判断はそうなんだけどアポステ料理かっていうとそうじゃなくないということうん

なんでカントがこういう風に言わなきゃいけなかったのかなんでヒュームのアポステ料理じゃんとかいうのに対していやアップ料理なものもあるんです 7 たす 5 はずっと 12 なんですっていう風に言わなきゃいけなかったかっていうとそう言わないと哲学って不可能になっちゃうから

科学も数学も全部不可能になっちゃうそうですね土台を作りに行ってんだからねその土台が本当に正しいのみたいなのはある意味ここではその話をしてないというかこの二人の批判をもってして哲学をするにはこう考えましょうこれはありますよねっていう話をしてるってことかごめんなさいもうずっとヒュームっぽくなってきたそれもわかるしそれが当時の 17 世紀とか 18 世紀とかカントがいた頃のみんなの考えなんですよアポステ

そう思っちゃった全部聞いても全部疑いになっちゃった本当?それも全部経験じゃないみたいなヒュームの哲学は経験論とかっていうよりも会議論っていう風に言われることが多いんです

会議論もう会議の沼にはまっちゃったら全部会議しちゃう全部疑っちゃうこれヒュームの会議論っていう風に言われてるぐらい結構ね攻撃的というか何でもかんでも疑えちゃうそうだねけどカントからしたら哲学を救い出したいし新しい哲学を作りたいし数学とか科学が普遍必然的なものであるということを証明したい

ヒュームの攻撃から守りたいだから新しい土台が必要だっていう風にこれが導入のところですねいろいろ診断していったらあれアプリよりな総合判断っていうのが土台としてあるかもという風になどり着いたところまででございますなるほど

じゃあ人間たちはどういうふうにこのアプリよりの相互判断をしているのかそうだねなんで 5 たつ 8 は 13 だと思ってるんですかねしかもそれが必然的だと思っているのかみんな思ってるもんねこれをですね次回カントがどういうふうにこれを解決したのかということを

使いたいと思います全くわかんない全くわかんないと思いますカントもこの純粋理性批判ね若いうちから書き出すんですけど友人たちにもねいつできるのいつできるのって聞かれてもうちょっとできると思うよとかっていう風に言って 2,30 年かかってできるっていう過去のねゆる鉄蔵城で聞いたことある哲学者あるあるかもしれないですねもう少しで書き終わるようがいつまでも終わらないいつまでも終わらない何回か聞いたことあるなと思って

純粋理性秘話もその本ですそのタイプの本ですカントももうすぐできるなというふうに思ったんだけどもあれ意外と謎が深いなということでそれぐらい時間がかかってしまったとめちゃめちゃ難問だねめちゃめちゃ難問でございますということでですね次回カントが何十年も考えて出た結論を 1 時間ぐらいで喋ろうかというふうに思っておりますはい

ということで高評価チャンネル登録コメントなどねお待ちしておりますどんなコメントかと言いますとですねデュルズ語りというコーナーを最近やっておりますやってるな今回もやりますやりましょう今週もデュルズ語りやります多分途中で切ってしまった人とかもいると思うんです終わりなんだと思って切った人いると思うんですけどまだまだ実はまだまだあったんです今週のデュルズ語りははい年度的教育でございます年度的教育年度ってあのコネコネ

あああ、小作で作られるやつね。あれ的な教育ですね。おお。どんな教育なのか。なるほど。図工とかでやったりしますけども、そういうことじゃなくて、粘土の性質を使って教育というものをですね、語ろうとしたときにどんな教育かということを考えていただければと思います。そうだね。はい、思います。ということで、ゆる哲学ラジオ、以上にしたいと思います。ありがとうございました。ありがとうございました。